2018年9月12日

続:宿題について About Homeworks

自由に使える時間があったら、こんな活動もできる。
ランドセルの重さについて、
先日、文部科学省が、言及した。
続いて、宿題の多さについても、議論が交わされてるようだ。

意外に、
「社会人になってから、必要とされる書類を期限内に出すための訓練」
だから必要だと、訴えている人が多く、
「甘やかしたら、子どもが弱くなる」
と言う意見も、結構、見かける。

私は、宿題は、目的がないなら、必要ないな、と思ってたけど、
学習習慣のために必要だ、という意見が、多かった。
宿題の効果とか、害を、議論するのは、
日本の社会のあり方も考えると、複雑そうだ。

私自身、宿題を、ちょくちょく、サボった子どもだった。
他に、やりたいことがいっぱいあって、ついつい、忘れちゃうのだ。
毎日、野山で植物や虫と遊んで、部屋の中で、没頭して、作り物をしていた。
大人になっても、日本の組織社会内で働いているわけではない。
社会への訓練だと言われると、
「みんなも、いらないよ。辞めようぜ」
とは、言いにくい。

でも、時間は、子どもといえども、無限ではない。
遊びの時間、お手伝いの時間、ぼーっとする時間、おしゃべりの時間を
宿題が子どもから奪ってしまってるのも、事実だ。


大学生の頃、LD(学習障害)の子の家庭教師をしていた。
とても、かわいらしく、明るい女の子で、
話していても、何も、違和感を感じなかったが、
プリントに向かうと、一気に、どんよりした。
目から得た情報が、脳で電気信号に変えるのに、不都合があるようで、
漢字のへんとつくりが、左右逆転し、ひとつの文字を書くのに、何十分もかかることがあった。

毎日、国語と算数のプリントが1枚ずつあったとして、
それを家庭教師が横について、2時間かけても、
終わらないこともしばしば。日によっては、9時過ぎまで、泣きながら、
宿題をこなしていた。小学校3−4年生だった。

学校の先生としては、多くの課題をさせることで、
できていない部分をカバーする、という意図だったのかもしれない。
追加のプリントが出ることさえあった。
でも、その生活は、過酷で、気の毒だった。

「特別クラスに行けばいいのに」と思う人がいるかもしれない。
でも、彼女は、日常生活では、障害を感じさせることはなく、
すべて自立していた。幼稚園から、ずっと一緒だった友人から、
学習面の理由だけで、離れてしまうのは、どうなのだろう?
(今は、特別クラスと普通クラスの接続が、もう少しよくなり、
サポートが受けながら、行き来ができるのかな)

あの子の、プリントを前にした、涙を忘れられない。

教室で、何を求められていたのか。
ある枠に入る人間だけを、評価して、そこから、はみ出てはいけない。
そこから、はみ出ないよう、矯正しなくちゃいけない。
そんな風に、言われている気がした。

彼女も、合った職業があり、社会人として活躍できると感じた。
でも、学校という学歴社会の中で、「普通クラス」からはみ出ると、
枠外に出てしまい、生きづらくなる。
何かが、不条理に感じたけど、
その不条理の相手は、巨大な日本社会だと気づいて、
「どうしようもないな」と思ったのを、覚えている。

授業についていけない場合だけじゃなく、
より高度な関心を持つ子供にも、同じことが起きてるんだと思う。

学校の運営上、授業で個々に対応するのは難しいだろうけど、
宿題は、「できたら、やる」「やりたかったら、チャレンジ」
「自分のレベルに合わせて、ドリルを選ぼう」
なんかが、あってもいいのでは、と思った。

健康で、幸せな、放課後を、子どもたち、みんなに過ごさせてあげたい。

0 件のコメント: