2018年6月7日

希望のために働く、不安のために働く Calling

さつきさんの畑で玉ねぎ掘り
手仕事とは、心から望めば、たのしい作業になる。
江袋のさつきさんは、
「私は、しあわせ。畑の仕事が好き。工夫をするのが好き。」
という話を、いつも、してくれる。
「土いじりが、小さな頃から、好きだった。
だから、この生き方ができて、本当に、しあわせ。」

先週ぐらいまで、私も、仕事で大忙殺で、きつかったが、
それでも、終われば、さわやかな達成感で、満たされる。
仕事って、たのしいよね、とやっぱり、思える。

畑仕事が、世界で一番、楽しい、とか
好きな絵の仕事をしてるから、全然、辛くない、
という話ではない。
体を使って、畑を1日耕せば、もちろん、疲れる。
寒い日もあるし、暑い日もある。
創作も、仕事である以上、非常にシビアな現実の中で行われ、
プレッシャーをきつく感じる。
でも、やっぱり、「たのしい」のだ。

ふと、人は、希望のために働いてるのか、不安のために働いてるか、
分けられるのでは、と思った。
同じ仕事内容、仕事量をこなしても、
働き手それぞれに、ダメージが違うのは、そのためかと思う。

それは、子供が勉強するときも同じで、
「ぼくは、どうしても、このことが知りたい」
「これを研究して、人を助けたい」という希望に動かされてる時、
勉強は、きつくても、ストレスにはならないけれど、
「勉強しないと、こんな風になっちゃうわよ」
と脅されて、不安から、勉強すると、
ストレスから逃れるために、新たなストレスを抱える、
というような、先が見えない、スパイラルの中で、もがくことになるのだ。

英語では、仕事のことを、Callingという。
「神様が呼んだ」という所から、来ている。
日本語で言うところの「天職」に当たる。
それはまた、公共の大きな目で見た時、世界に貢献しているべきだ。

私は、子供が生まれ、地方に移ったことで、ハンデが多くなり、
その中で、無理をしてでも、仕事を続けるほど、
私ではないとできない仕事があるのか、悩んだこともあった。

今、人に会い、そして、言葉を探しながら、記事を書いていくことで、
「まだ、私にも、できることが、あった」と感じた。
それは、どれだけお金持ちになったかとか、有名になったかとか、
では計れない(そうはなってないし)自分だけの答えだ。

こうしないと、この立場を守れない。
この立場を守るために、納得いかないが、イエスと言おう。
書類も改ざんしよう。
おかしいと思うが、飲み込もう。
自分には合ってないと思うが、我慢しよう。

ーでは、希望があるはずもなく、不安に支配された仕事になってしまう。
そして、俯瞰してみたら、世界にも、未来にも、貢献していない。

なんとなく、社会全体が元気がなく、閉塞感があるのは、
不安で社会が動いているからではないかと思う。
そのエネルギーは、少しばかり、自分勝手で、
見通しも、せまい。

子らには、希望のために学び、希望のために働いて欲しい。
そして、それが見つかるまで、支えるのは、母のCallingだな、と思う。

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