わたしは、身近な人間が、スーパーパワーを信じ過ぎて、たくさんのものを失ったのを見てきたので、「盲信」に対して、拒否反応がある。
世の中には、さまざまな価値観があって、絶対的な基準なんてものは、存在しない。どの意見も、見る方向によって、どれも「正しい」。どこの方向から見るか、決めるのは、人それぞれである。
ただ、ある人にとって「正し」かったとしても、社会が外に開かれている以上、成り立たなくなるラインがある。大河ドラマで、幕末の話を見ながら、「尊皇攘夷も、どこかの時点までは、正しかったんだなあ」と思った。でも、これだけ、多くの優秀な人間を死なせてしまったのだから、「正しさ」が、どこかで、時代や社会に合わなくなっていたことに、気づくべきだった。盲信するのではなく、話し合い、時代に合わせて改善し、方向転換する勇気が必要だったんだろう。
閉鎖社会では、「正しさ」は、絶対的な「正しさ」として君臨する。そこに疑問をもつことは、「まちがい」であり、さらに、「悪」「敵」となる。
国が掲げる「正しさ」が、とんでもない方向に行った時、国という密室の中で、人は逃げ場がない。あるものは罰せられ、あるものは社会的に抹殺され、傷つけあい、結果、そこにいるために、正しくなさそうなものを、無条件に信じるしかなくなる。盲信が、強要された。
毎日、ドタバタと、怒ったり、泣いたり、笑ったりと、忙しいナノカだが、すべての感情が、お腹の底から出てきて、まっすぐとぶつけられて、チーンと天に上っていく。とても、健康的な毎日だ。そのことは、大切な人間の権利だと思う。
子どもの、こうした権利が守られる世の中であって欲しいな、と思う。
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