2020年11月30日

ペン画「もじ」 Pen illustration class

 

クラッシックな唐草と食虫植物の間みたいな装飾の付いたK

クロスハッチングで作った黒に白文字が浮かぶ、かっこいい年賀状。

アリスを思わせる、キッチュなK

色を、ランダムに入れた感じが、かっこいいです。

アルファベットの使い方をマスターした後、同じデザインでクリスマスバージョンと年賀状バージョンを作るユーモアセンス!

こちらは、ラフなハッチングで作るグレーでクリスマスツリーを

着色すると、こんな感じ。ステキです!

文字だけ着色もいいですね!

なんとも、かわいらしいスノードームに入れたKの文字。線がクリーンで、和田誠さんみたいですね。
 

ペン画教室で、12月は、文字に注目しました。

カフェで1回(満席!)、そして、オンラインでやるつもりでしたが、申し込みが近所の1組だったので、わが家でもう1回やりました。

日本人は、習字の文化があるので、フリーハンドの文字が比較的うまく、それを尊ぶ文化だと思いますが、目分量ですべてをかっこよく書くのは、やはり、むずかしい。線を引いて、きれいに並べる方が、いいケースもありますよね。なので、一度、定規使って、きっちり、文字入れをしました。

もちろん、面倒くさい作業なのですが、ワイワイ、楽しそう。意外と、文字って、バリエーションがあって、 さて、どう加工しようか、おしゃべりも弾みました。

そして、このシンプルな作品群の、美しいこと!

原画をコピー機にかけて、色塗りをした子もいましたが、これまた、オシャレ。

カフェでのクラスには、大人と、小学生の常連さんが並んで、ペン画を描くのですが、お互いに刺激しあって、とても、いい雰囲気です。

そして、終わった後のカフェタイムが、また、小学生には、大人の時間で、うれしいみたい。そういえば、自分にとっても、習い事って、「何かを習得する」時間だけではなく、帰り道に星を見たり、待ち時間に本を読んだり、そういう時間も含めて、大切な思い出だと感じます。よい時間作りを、これからも、していきたいです。

オンライン「いろいろ、はっぱ」Online class "Autumn colors"

 前々から、「やってみたい!」との声が多かった、色の混色の講座。

特に遠方の知人からは、「オンラインで、やって!」と言われていたものの、実際に色の配合を眼の前で見てあげられないから、どうなるかな、と思いながらの企画でした。

でも、もともと、色との付き合いというのも、自分の目と感覚を使う個人作業。オンラインでも、それぞれが集中して、しっかりと取り組んでくれていました。

オンラインのよさは、親子で取り組む人が多いこと。今回は、小さいお子さんがいて、そちらのお手伝いに回ったお母さん以外、ほぼ全ての組が親子で取り組んでいました。親も、「うーん、難しいー」て一緒に、作業するのって、いいですよね。

オンラインでの作品も、おもしろいものが、たくさん、できあがっていました。送ってもらった写真で紹介します。

左が年長の娘さん。渋い中間色を、しっかり見つけることができました。色が濃くなるにはどうしたらいいですか?という、的確な質問もしてくれました。いつもと違うパレットで描いた絵は、ちょっと大人びて見えますね。右がお母さんの作品。「色を、今までしっかり見てなかったことに気づいた」と感想をいただきました。ピンクに見えても、いろんな色味がありますが、細かく見ることは、日常生活ではないですもんね。とても、うれしい感想です。

姉妹の妹ちゃん作品。色探し、最初はお母さんに手伝ってもらい、最後の2色は自分で作りました。これで、混色マスターですね。デザイン画は、ちょっと昔のワンピース用のプリント生地みたいで、とても、さわやかです。

お姉ちゃん作品。くすんだ色を、選びました。水彩をうすめて、淡い色にしています。デザイン画は、とても不思議な線のデザインから、木製の橋にしたのかな?この繊細な色使いで、いろんなものを、これからも描いていったら、おもしろくなりそうです。

意欲的に9色、探してくれました。色のバリエーションもたくさんあり、配合もしっかり描かれていて、科学っぽくて、楽しさが伝わってきます。絵の方は、とっても不思議な生き物を描いてくれました。濃い茶(紫)が活きていますね。混色して作った、繊細な色なので、シンプルな絵が、とても個性的に見えます。

こちらは、オータムカラーのサンタさん。冬の色より、あったかくて、おいしそうです。冬前は、こんな風に、準備してるのかなあ。

オンラインのあっち側の写真も送ってくれました。集中して、作業している様子が伝わってきます。

わたしは教えるのが好きなんだな、と最近、気づきました。

創作活動は、自分の意図することを、しっかりとコントロールして、形にしていく作業ですが、教える、というのは、子育てと似ていて、環境とか、情報とか、そういうものを提供して、相手の反応にお任せするものです(と、わたしは思っています)

ものすごく、深く考えて、準備しなきゃいけない部分と、どうなるかはお楽しみ、という空白の部分があります。

あるものを触媒として(この場合、私が用意したプロジェクト)、その場で反応や作品となっていく瞬間が見られる訳です。それも、何通りも。

リトルアーティストに元気をもらって、わたしも、また、自分の創作に、戻っていくのです。

リトルアーティスト「いろいろ、はっぱ」 Art Class "Autumn colors"

色探し。葉っぱのある部分を、順番に混色で見つけていきます。
3歳の女の子の作品。絵の具を使い始めたばかりだけど、しっかり「混ぜる」ということを理解して、色を作ってくれました。秋色のお花やリボンと、キティちゃんが、愛らしいです。集中力、すごかった!

年長女の子。色を作るのも、一人でせっせと取り組み、そして、作った色で描いたのは、カラフルな大小の丸!なんて、美しいんでしょう。お日様で輝く、小川の小石みたいです。いつもは、大好きなパステルカラーや明るい色をいっぱい使って、絵を描いてくれるのですが、微妙な中間色が、シンプルな構成を、とても豊かにしています。また、色、混ぜてくれるかな?

初参加、年長の男の子。とても、慎重に色作りをしていました。絵の具も買いたての、ほぼ初めての体験でしたが、しっかりと混ぜて、最後の絵は、元気で愛らしい猫の親子を描いてくれました。これまた、微妙な色彩が、うつくしいですね。緑のラインで描いたので、全体的に、柔らかい印象です。

ピンクの魚の絵は、めずらしい!!!いつも、大好きな青の絵が多いのですが、なにせ秋の葉っぱに青はなく、自分にないパレットを手にしました。そこで、生まれた、今までとは違う、世界観。クレーを思わせる、魚のいるデザイン割りも、とても、楽しいです。

いつも、とてもかわいらしい絵を描く男の子ですが、今日は、ちょっと大人っぽい、シャープなデザインを、見つけた秋色で仕上げました。上に文字を入れて、チョコレートのパッケージとかにしたい。濃い紫茶があることで、全体が引き締まっています。そういうことに気づくのも、自由が少し制限されているからかもしれませんね。

あいかわらずの、ひょうひょうとしたシンプルさを誇る、ナノカの絵。このサンタは、メガネをかけて、風に吹かれて、なにを思うのでしょう、、、色探しのプロジェクトは3歳からやっていますが、何度やっても、「楽しい。もっと家でやる」と言います。

初参加、小4女子。「だいたい、いいんじゃない?」と私が言うと、「まだ、ちがう!」と、目を凝らして、正確な色を追求していました。色が好きなのだな、と伝わってきました。最後のデザインは、ステンドグラスのイメージだそうです。こんなガラス窓があったら、本当に素敵ですね。

小3男子。色探しは、科学の実験のように、せっせとなんと14色も作っていました。作業もきれいです。出来上がった色は、タイルのようにきれいに並べて、デザインしました。クレーの絵みたいですね。これが、隣合う色が同系色だと、バランスが悪くなるので、なかなか難しく、苦労していました。最後は、とても美しいタイルになりました。

親子で参加の、お母さんの方の作品。かなり、しっかりと色探しをしていて、美しい秋の4色を見つけました。このくすんだ淡い色で、クリスマスツリーを描き出しました。きれいに塗らないと、なかなか魅力的にならないところ、手作業もていねいで、たのしい作品になりました。

娘さんの方の作品。色探し、微妙な色を、ていねいにゆっくりと探していきました。デザイン画は、ウサギの絵。まわりを見つけた秋色で塗って、ウサギを白抜きするという発想が、とても、いいですね。とても、やさしい作品に仕上がりました。


 色の混色にしっかり取り組むため、葉っぱを使って、色を見つけるプロジェクトをしました。

下は4歳から、上は大人まで、みんな「むずかしーい」と言いながら、集中して、3−12色、作り出していました。

美術は、「色は、2色以下を混ぜましょう」と言うような、きれいな絵を仕上げるために、指導が多すぎるのは、論外ですが、「自由に!!!」とただ、描かせるだけでは、同じところで、同じ絵を描くばかりで、なかなか発展していきません。

道具の使い方を知り、画材の特徴を知り、物の見方や、構成する要素を徐々に知っていくことで、より「自由」な表現に集中できるようになるのだと、私は思います。

子ども達は、そんなこちらの意図は、意識しなくてオッケー。

新しい体験にワクワクして、世界が広がっていけば、それでいいのかな、と思っています。

2020年11月26日

身の程を知る Know how big

 

ナノカのやっていた塗り絵が、きれいだった

 ナノカが、図書館で「ガラスの仮面」を借りて、ハマっている。

ナノカも演劇が好きだし、「女優さんになりたい、て思う?」と聞いてみた。すると、「別に」とそっけない答えが返ってきた。

「なんで?劇も楽しそうにやってるのに」と聞くと、「やるのは、楽しい」と言った後に、「ナノカは、習い事程度でいい」と言った。

あまりに、あっさりしていて、こっちが逆に、考えてしまった。

ナノカが真剣にハマってやっていると、一生懸命応援したくなり、親の方がどこかで、何かを掴んで欲しいと、期待しちゃってるんだと反省した。

ナノカは、わりとなんでも「やりたい!」と言い、そして、自分で言いだした以上、それなりに熱心に取り組む。真面目なので、上達することもある。それを、喜びと感じている様子も見て取れる。

転校を機に、1度辞めてしまったピアノも、10ヶ月ほどのブランクののち、2週間に1度のペースで通い始めた。今度は、自分で「この曲が弾きたい」「もっとうまくなりたい」と言い、短時間ではあるが、練習も毎日している。先生との相性もよいようで、歌いながら弾いたり、音階やリズムの仕組みを考えたり、音楽と自分の関係を、客観的に見ながら、付き合うようになったように見える。

一生懸命、なにかを毎日やってみる、ということは、自分の実力と向き合うことでもある。

 それは、時に、辛いことだ。一歩、踏み入れてみると、ものすごい上の世界がある事に気づく。自分の至らなさを実感しながら、その道を歩んでいくことになる。

でも、そこで立ち止まったり、目をつぶってしまったら、その世界との接点を失ってしまう。好きであり続けるためには、自分の姿を知りながら、自分なりの課題を見つけて、前に進んでいくことを、楽しまないといけない。

ナノカがもう少し幼かった頃は、人と比べて「できないから」と、拗ねたり、諦めたりすることがあった。 でも、いつからだろう、そういう事を言わなくなった。今は、「できるようになった」「むずかしかった」「これは、わりと得意」と、淡々と報告をするのみだ。

長く、同じ習い事をして、よかったと思った。真剣に何かに取り組み続けると、必ず、壁にぶち当たる。その中で、自分が完璧な王者じゃないことを知る。子どもに、可能性は無限大だというけれど、なにもしないから、可能性がゼロであることを証明できない、という意味では、結局どこにも行き着けない。限りなく、遠い道のりも、今の一歩からと歩き続けられる人間だけに、可能性が残されているのだ。そのシビアさを、子どもながらに気づかされるのが、習い事だ。

行き先が一個だと決めつけて、親がごちゃごちゃ口出すのは、本当にお門違いだ。 彼らは、日々、自分の大きさを実感しながら、一歩を重ねている。そこには、確実に成長があるし、そこから、いろいろな広がりもあるだろう。外部のさまざまな期待は、邪魔でしかない。

身の程を知る、と言ったら、ネガティブに聞こえるかもしれないけど、年齢も上がってきて、そうやって自分の器や人生と向き合う時期が来たのだなと思う。そして、身の程を知った上で、努力し続けることができたら、それは最強なのだろう。

わたしが、舞台に生きていない人間だから、「マヤちゃんみたいに、女優になっちゃう?」なんて、アホなことが言えたんだ。

ナノカは、ガラスの仮面について、ちょっと古くて、理解できない感覚も多いらしく、「出前のラーメンが、のびちゃう?」と、首を傾げてた。そういえば、マヤちゃん、何歳なんだっけ?児童虐待?高校生なら、アルバイトで、今もあり得る状況か。まあ、その古さも、「わたしも、マヤちゃんみたいになる!」につながらなかった理由なのかもしれないけど。

2020年11月19日

地味子の実力 Quiet girl's Ability

 

ナノカの様子を見に、学校に行った。

集団の端っこで、マイペースに、地味に、活動に参加していた。必要な時に発言し、必要そうなメモを取り、みんなの様子を見て、たまに下級生のフォローをしていた。

リュックの中には、現在読んでいる厚さ5センチの本が入っていて、空き時間には、それを読み続けている。

服装も着心地重視で、自分の好きなものを着る。好きな色は、こげ茶。めがねっこ。

学校社会というのは、声が大きく、はなやかなものによって、動く。 集団の中にいると、パッと見、目立たないなあと思った。でも、先頭に立って、リーダーシップを取ることだけが価値であったら、世の中は、つまらない。逆に、この立ち位置を全うできることも、素晴らしいと思う。

地味に積み重ねてきたものは、活動していると、自然と出てくる時がある。

ナノカは、朗読をスラスラと読むが、同世代の子の10倍以上本を読んでるからだ。

手先が器用なのも、幼少期から、たくさん、たくさん手を使ってきたからだ。

静かに淡々と生きているが、それなりの時間の積み重ねの中で、作り上げた「ナノカ」である。

2020年11月17日

ビクトリ Winning bird

 

誕生日にもらった、引換券と、今朝、引き換えられた、名刺入れ

デザイン案
金曜日、学校から直接、アルカス演劇サークルのリハへ。20時終了。

土日は、朝10時集合の、17時解散。3公演(10分ぐらい)のために、3リハ、1日待機。

クッタクタの週末だったけど、「好きなことをする!」という大人に混ざり、好きなことをするって、貴重な体験。どんどん、自信が出てきたナノカの表情や動きを、客席から、見せてもらった。

真剣に遊ぶ大人の世界だから、緊張感はある。子どもとはいえ、与えられた役割に応えないと、舞台は成り立たない。でも、一緒にやっていく仲間として、受け入れてももらえる。

ナノカは、演劇が大好きだけど、ミュージカル女優になりたい、と言ったことはない。「やってみたい!」の延長線上に、ドキドキする世界があって、そこに身を置きたい、という、シンプルな気持ちだけだ。

最近、「まなぶ」て何だろう、とも考える。(考えてばっかり)

私自身は、ナノカに対して、不安を感じたことはない。本を読み、調べ物が好き。想像力旺盛。会話の機転もきく。このまま、のびやかに育っていったら、じゅうぶん、幸せに生きていくだけの要素を持っていると思う。彼女の人間としての力を、信じられる。

でも、試験を受けたら、学業的には、一般的な平均値を達成できないかもしれない。それで、社会は回っているから、結局すべては、そこに行き着かなきゃいけない?

「まなぶ」が、自分の世界を拡げていくことなら、人がまなべる場は、それぞれ違っているだろう。大きなクラスを相手に、「さあ、みんなで学芸会に向けて、劇をやります!」と言っても、半分ぐらいの子は、「たるーい」「はずかしーい」となるかもしれない。大人数で、いっせいにまなぶことには限界があるだろうな、と思った。

多くをまなんだ週末。クッタクタだったが、朝起きると、約束していた名刺入れを作ってくれた。もう回復している。よく遊び、よくまなべ。

2020年11月12日

手帳づくり We would make new personal organiser

手帳買う、は冬の季語。

予定を書き入れようとして、あ、2月のページがなかった、と不便を感じ始める季節となった。

毎年、手帳は、既存のものを加工して使っている。売っているものでは、機能性と、自分の好みが一致しないこともあるし、常に持ち歩くものに、自分の主張を乗せたいという気持ちからだ。

今年は、他の方にも、そんな気持ちになってもらえたらと、ゆいまーるで講座を開くことにした。いつもは、ペン画講座をしているが、「絵を描くのは、どうしても、抵抗が、、、」という方にも、手作業をして、ものを作る楽しさを味わってもらいたいとの思いから、店主のみきちゃんと相談して、決めた。

材料は、越前和紙を中心に、折り紙、紙ナプキン、ラッピングペーパー、トレーシングペーパー、雑誌の切り抜き、そして、レースや飾りなどを組み合わせる。

ペン画はカリコリと黙々と線を引いていく作業だが、今回は、色や肌触り、模様などを吟味しながら、切って、貼っての作業になる。

12月12日(土)13:00−15:00 カフェゆいまーるにて

「1年のお供に、自分らしい1冊を持ち歩いてみませんか?」


2020年11月11日

われら、競争社会の申し子 We had been competing

https://youtu.be/unrayyhrVIU

ここ数ヶ月、ナノカは、アルカス佐世保の演劇サークルに所属して、いろいろな経験をしている。

舞台はいいなあ、と思う。それぞれが、それぞれの持ち場を演じないと、成立しない。

ナノカは、バレエのレッスンと重なったり、学校の授業日と重なったりで、出られない日もあって、ただでさえ覚えが悪いので、ついていくのに苦労していたが、ようやく、思い切って、体をいっぱい使って、歌って、踊れるようになった。周りの熱に押されて、自分の役割を感じているようだ。

指導してくれている演出家の宮原清美さんが、「舞台は、協力しないとできない」となにげなく、言っていたが、当たり前に聞こえるこの言葉を、一緒に作り上げている中だと、実感する。

役者は、それぞれが、輝こうとして、鍛錬して、ダンスを習ったり、歌を練習したり、ダイエットしたり、体を鍛えたりするわけだけど、でも、どれほど自分を磨いても、ひとたび、舞台という場所に連れてこられたら、今度は、自分の役割を全うする。そこに上がれば、競争ではなく、協力だ。

ナノカは、そのことを、よく知っていると思った。バレエも、ピアノも、三味線も、舞台も、より上手になりたい、あれができるようになりたい、という気持ちで通い続けているけれど、だからと言って、競ってる気持ちは全くなさそうだ。それは、幸せなことなのかもしれないなあ、と思う。

最近、誰かがシェアしたテレビ番組で、フィンランドの校長先生が日本のマラソン大会に対して、語っていたのを見て、いかに日本が「競争」から、結果を生み出そうとしてきたかを、実感した。

そのテレビ番組では、日本のマラソン大会で順位をつけることに、フィンランドの校長先生が、疑問を呈していた。「走ることの、楽しさを知るのが、学校のスポーツの目的ではないですか?」と 。ほとんどの人間にとっては、走ることの目的は、オリンピック選手になることではなく、体を動かす心地よさを知り、生涯にわたってスポーツに親しむこと。なぜ、すべての児童に1からビリまでを順位づけをして、悲しい辛い思いをさせなきゃいけないのだろうと。

頂点の何人かを排出するために、裾野を拡げて、巨大なヒエラルキーのように競争させる。たった数人のオリンピック選手を出すために、毎年、マラソン大会をする。世界に競争力のある優秀な人材を作るために、学力統一テストで、すべての人間の順位づけをする。

私たち世代は、そのシステムで育てられた、競争ベースの人間なのだと、しみじみ思う。今の子育て世代、子どもを「「負けない子に」という意識から、意外に抜けられない。

たかだが幼稚園、小学校の子どもにとっては、本来は、勝ちも負けも、それほど重要じゃない。知らない間に、小さな頃から、システムに、踊らされているのだ。本当の生き方は、じゅうぶんに、子ども時代を楽しんで、いろんな経験をして、その中で、自分の気持ちで決めればよいのに。

社会も、舞台のようなもの。それぞれが、それぞれの輝きたいと思う努力をして、そして、自分の持ち場で、自分の働きをする。

だれが、だれより優れていて、だれが劣っているかなんて、順位をつけて、意味があるだろうか?目立たない役割もいなくては、舞台は成り立たない。社会も成り立たない。

勝ち負けが、人を強くして、結果を生み出す、と信じてる人もいるだろう。でも、多くの不幸と、息苦しさと、不毛な神経のすり減らしを生み出していることも事実だ。

わたし自身、わたしの中にある、競争そだちの感覚を、がんばってないと脱げない。ありのままの君でいいよは、意外に、難しい言葉なのだ。

2020年11月10日

ネガティブな感情と向き合う Negative exists

 

 いじめ、について、しばらく考えている。

 いじめやからかいのような事件が学内で起こった時、当人は、人生観が変わるほどの経験をしているが、クラスメートも、学校も、教師ですら、それを、日常の出来事の一つとしてしか受け止めてないことが多い。

本人は、1ヶ月後も、1年後も、下手をしたら、一生、覚えている。温度差だ。

「そうやって、強くなっていくのかな」と思ってきたが、それは、「いじめ」について、学校も、社会も、あまりに勉強不足で、その場しのぎの対応で処理してきたことの、言い訳に過ぎないのかな、と思った。

 日本の教育では、いじめを、まるく収めて、終わりにするケースが多い。いじめた人間も、自分のどの行動が悪かったのか、相手を傷つけたのか見つめ直すこともなく、指摘された行為だけを謝って、なんとなく終わる。でも、なんで、そこに至ったのか、「だって、あいつが、そもそも腹が立つ」みたいな感情を心の中で消化できてないので、いじめは続く。あるいは、水面下に潜る。大事にならない限り、くすぶり続ける。

しかし、フィンランドの教育では、小学校に上がるに当たって、親に「いじめとはなにか」との講演会があるし、子どもに対しても「こういう行為が、相手を傷つける、いじめです」というケーススタディを教えている。実際に、実例を挙げて、それぞれの立場のきもちを話し合い、集団生活で起こりうる「いじめ」について、みんなで考える。学術的に研究されて、いじめが起こる集団心理とか、児童心理とか、発達心理とかを、きちんと受け止める。そして、程度が過ぎた場合には、毅然と犯罪として処理される。なぜなら、すべての子どもが、平等に、安全で安心な教育を受ける「権利」を持っているからだ。

 成長過程の未熟な人間の過ちを、つるし上げる必要はない。日本でも、事実を整理する必要があるかと思う。なにか問題が起こった時、向き合っていないのは、子どもではなく、教育そのものなのかな、と思った。

ネガティブな感情は、誰だってある。

自分よりできる子が、うらやましくなる時もあるだろう。

ノロマの子に迷惑をかけられ、イライラすることもあるだろう。

家庭や人間関係で思い通りにならないことを抱えて、あたってしまうこともあるだろう。

人間は聖人君子ではない。そして、それを目指す必要もない。イヤな感情が湧いてくることもあるし、振り払うことができなくて、辛いことなんて、大人だって、ある。

大切なのは、ネガティブな感情をなくすことではなく、それと向き合い、コントロールを覚えることじゃないだろうか。

 子どもは、いい子でないといけないのだろうか?人間は、常にやさしくないといけないのだろうか?邪な考えや、嫉妬や、身を守りたいという気持ちは、あっちゃいけないのだろうか?

 大人が、ネガティブな感情がないかと言えば、やはり、ある。しかし、客観的に自分を見て、「イライラしてるなあ。ケーキでも食べて、忘れよう」とか、「ヤダヤダ、これは、嫉妬だわ。他に目を向けよう。」とか、関係のない旦那に夜グチって、スッキリしようとか、感情と行動の間にクッションを置くコントロールをしている。それができないまま大人になると、大人の社会でも、差別やいじめが起こる。なににせよ、私たちは、体系的に、それを受け止めてない。

 「子どもは、みんな、基本的には、いい子なんだ」と言った人があったが、わたしも、それに同意する。それぞれに、それぞれのよさがある。だが、「子どもは、いい子だ」を、 押し付けて、彼らのモヤモヤした、さまざまな感情を、受け止めなくていいわけではない。

 文学も、演劇も、芸術も、そういうネガティブな感情を、あるがままに受け入れ、社会の不条理を描き、そこで生きる人間の生き様を客観的に映し出す。そうしたものを通して、子どもも、自分の中にある感情、相手の中にある感情を受け入れ、成熟を目指す。

 ナノカは、先日ライオンキングのミュージカルを観に行ったが、そこで3回ほど泣いたらしい。そのうちのひとつが、スカー(ライオンの王をだます、悪役)が、孤独を憂う場面であった。悪役のネガティブな感情の裏にひそむ、複雑な気持ちに共感することができたのも、彼女自身が、さまざまな気持ちを受け止めているからだろう。

 いじめや子どもの犯罪の後ろには、もちろん家庭事情もあると思う。でも、同時に、子どもの心理に向き合いきれていない教育制度もあると思う。仕方ないからと諦めている節があるけれど、人はさまざまな問題を抱えていても、自分の感情との向き合い方、社会との距離の取り方を、それぞれが、学んでいかなきゃいけない。とても難しい課題なのだと思いながらも、日本の教育に、一歩前に進んでもらえたらと、願ってやまない。

2020年11月7日

オンライン「バッジ」Online Artist "budge"

 先日、オンラインで制作した、ハロウィンのいきものバッジです。

今回は、とにかく自由に、楽しく、作りました。

6つ目の鬼。表の色ではなく、裏地のベージュにこだわって、作りました。「こわい」ものが作りたかったので、大成功ですね。スケッチが秀作で、熱中して描いていました。これが作りたい、表現したい、との熱意があふれ、それが実践できた今回のプロジェクト。見ていて、うれしかったです。

こちらは、ウサギちゃん。顔の部分を小さく切り抜いて仕上げて、満足。それで、終了かな?と思っていたら、紫のベースに貼り付けて、ウサギの世界を拡げてくれました。体の部分を、こんな風に2枚の横線で表現するなんて、オシャレですね。黄色も活きています。

こちらは、親子で参加。「ツリーキャット」と「とんでる羊」です。一つ一つの手仕事が、ものすごく丁寧で、そのおかげで、仕上がりが商品サンプルのように美しく出来上がりました。デザインも、シンプルで無駄がなく、それがユーモアを引き立たせています。ママさんのは、これまた、個性的で、見たことない作品になりました。大人でこの感性は、素晴らしい!2つは、色使いとモジャモジャ遣いに共通点があって、シリーズみたいですね。

始まる前から、始めていた、顔のバッジ。イタヅラ好きのいいヤツ感があふれる、楽しいものができました。こんな風に、材料に触発されて、勢いよく制作できるのは、ステキですね。こうした直感でできたものって、一番、しっくり来るのかも。そのままつけて、お散歩に行ってくれたそうです。服にもピッタリの色ですね。

鳥さんバッジ。年長の女の子が、ほぼ一人で仕上げました。(ママさんは、赤ちゃんと下の子のお世話で忙しかったので)緑という色を選び、とてもバランスのとれた大きさ、形に切り取り、装飾も、たくさんつけたくなる所を抑えて、作りました。自分の思った世界を、自分の手で作り出せるというのは、すごいことですよね。

こちらは、2歳の女の子の作品。お姉ちゃん、お母さんの手伝いはあったものの、直感で、バンバン貼っていく姿は、圧巻でした。1年前の赤ちゃんの頃を知っている私は、「おおー。こんなものが作れるように!」と感動しました。あっけらかんとした明るさがあって、小さい子の造形物は、なんとも味わいがありますよね。   




 娘と造形をしながら、生活してきましたが、その中で思うのは、体の発達と表現のバランスです。たとえば、1歳前後の頃、ナノカは色のペンを使って、大きな紙に絵を描いていました。筆圧が足りないので、鉛筆類が使えるようになったのは、かなり後になります。ハサミも、最初は切り裂くように使っていたハサミが、段々と、形を切り抜けるようになり、複雑な形を切ったり、硬いものを切ったりできるようになっていきました。 そういう意味で、その時々で、自由に使える道具や画材に出会い、自由に表現ができて、「楽しい!」と出会うことは、とても、大切だな、と思います。 「紙」は、子どもの力で、十分に加工ができて、自由自在に表現ができる画材です。今回は、その紙を中心にバッジを作ったのですが、子ども達が、自分の手で、自由に表現する喜びにあふれた笑顔が見れて、とても、うれしい時間となりました。 
  

2020年11月5日

カンコロの島紀行37 Goto Article

 


4年目に入った、カンコロの島紀行。今回は、移築された教会について、書いた。

 最近、「積み重ねていく」ことの重さを実感するようになった。それは、身近な例で言うと、子育てもそうだし、物のあつかいや、人づきあい、習い事などに始まり、伝統の継承、職人技術の習得など、重ねないと出ない「厚み」に、惹かれる。

 大木に出会うと、圧倒される。年輪は、毎年、数ミリずつ、重ねてきたもの。幹の太さは、「時」を目に見える形にしたものだ。

 古い建物に出会うと、そこが人と紡いできた「時」を感じる。

 呼子の教会も、馬渡島の教会も、最初、違う場所で、その土地の人の熱い思いで建てられ、そして、発展をしていく時に、「移築」という形で、今の土地に譲られてきた。譲られてから、100年。カトリックの人は、毎朝、教会でお祈りする人も多い。たぶん、100年の間、1日たりとも空になることなく、訪れる人があり、大切に掃除され、花が飾られてきた。

 そこには、不思議な明るさがある。空気までが、透き通って感じられ、光に満ちている。わたしは、カトリック信者ではないので、たぶん、神の存在を感じているのではない。これは、人が積み重ねてきた「時」の荘厳さを感じてるのだと思った。

 それは、高千穂で神楽を見た時にも思った。ここは、明るいと。清潔に、日々を重ねて、何百年と守られているものは、よどみなく、光に満ちている。

 わたし達は、使い捨てることに慣れてしまった。どんどん新しい商品が出てくるし、修理して使うより、新商品の方が割安になることも多い。

 しかし、何かを買って、何かをゴミに出すたびに、なにか大きなものを失う気がする。わたしも度々、100均にも行くし、セール品でものも買う。しかし、「古いものより、安かった」「また壊れるから、これでいいや」の商品には、あの清潔な明るさはない。

 野崎島を離れる時、人は、家をばらして、新しい土地に運んだり、人に売ったりしたと聞いた。それは、当時の習慣だったからだが、 その文化自体が、ものを使えるだけ使い倒し、循環させ、物にも、建物にも、「時」を刻ませてきたのだ。

 小さな頃から、開発される山や土地を見るのが、好きじゃなかった。山をなぎ倒し、新しい住宅地や、産業地に変えていく。そこには、「今、快適なら、いいじゃん」が「今、儲かればいいじゃん」と結びついて、前のことも、後のことも、考えずに、使い捨てていく。それは、時を重ねて行く気もない。空気がよどんでいるように感じ、目を背けたくなる。 

 使い捨て文化を可能にしてくれた、安価で便利なプラスチック。どの海辺に行っても、どこかで目にしないといけない。あれも、すべての風景を台無しにする、よどみだと感じる。

 開発と名のつくもの、新しいもの、全部を、否定してるわけではない。ただ、それは、必要なのか、考えていく時代に入ったのではないかな、と思う。世界から、すっきりと清潔に明るい場所が、消えつつある。

2020年11月4日

小さな成長に、気づくこと Notice the small developments

ナノカが、自然体感会で取っていたメモを見せてもらった。

  大人ばかりの集団に、一人で混じって、風がビュービュー吹く海岸沿いを歩いた体感会。説明してくれる大人にくっついて、自分なりのメモを取り続けていた。  メモを見て、「ああ、美しいなあ」と思った。時間もない中、簡潔に、特徴を掴みながら、ノートに配置されている。

  ナノカのできる事は増えていく。昨日より、今日。今日より、明日と。でも、 ナノカの中では、「できた!」との出会いだが、世の中の「できた!」の中には、さらに「ものすごく、できた!」「誰よりも、できた!」がある。 

 この年齢になってくると、「できた!」を、まわりと比べられる機会も増える。「できること」の価値も、派手さや、インパクトなどで、反応に、差が出てくる。 どうしても、大人は、「小学生なのに、こんな難曲が弾けるんだって!」とか、「○○ちゃんは、どこどこで優勝したんだって!」と、すごいすごいと、判断してしまいがちだ。 大人とて、知識がすべてにおいて深いわけでもなく、目立つものに飛びついてしまうことは、仕方のないことなのかもしれない。でも、それぞれが、それぞれの中で発展していくことの喜びを、気づき、共感したい。

 ナノカのメモは、誰かに褒められたいと思って、取ったものではない。たぶん、そういう行動が、ナノカの中に、いっぱいある。そして、その地味さ加減から、ほぼ、気づかれることなく、ただ、「ナノカちゃん、なんだか、しっかりしてるね」となる。 

世界がネットでつながり、情報が集まるから、「すごい!」に価値が集まりがちだ。昔は、比べようもなかった人たちと、比べられることもある。情報を見ることは、楽しいことでもあるけれど、それが、個人の小さな発展をおびやかさないよう、気をつけないといけない。 

「本当に、大切なことは、目に見えないのだよ」 なにかが、形をなすまで、膨大な積み重ねがある。すぐ結果の見えるものばかりでもない。特に、子どもの最初の数歩は、何の芽なのかも、見えにくい。 

評価を求めて、生きているわけじゃない。でも、ぞんざいな反応が返って来れば、寂しいし、ガッカリもする。 小さなことに、気づいていきたい。

2020年11月2日

Gotoグランペアレンツ Goto see the parents

 

思い出の写真発見

ナノカは、この記憶から、動物園に行きたがったのだ

今は、両親と動物園に一緒に行くのは、ちょっと難しい。この頃に行っておいて、よかったなあ。

強行スケジュールの帰省旅から、今、帰って来た。ナノカは、空港から、そのまま学校に行った。当初、帰宅便は日曜日の夜だったが、コロナで乗船者数が伸びなかったのだろう。予定便が欠航した。振替は早朝便しかないので、空港脇のホテルを取り、朝、長崎に飛び、学校へGOだ。出張のサラリーマンかい、というような朝の始まりだった。

今回の帰省は、実家の負担も考えて、ホテル付きにした。GOTOキャンペーン様様だ。予約後、状況が落ち着いたので、実家での滞在時間を延ばして、ホテルは泊まらないことにした。

帰省すると決まった時、ナノカが「動物園に、行きたい」と言いだした。今回の主なミッションは、実家に行き、両親の顔を見て、片付けの手伝いなどをすることで、一度、実家に着いたら、動けない。

その後、GOTOキャンペーンを使っているので、ホテルにチェックイン時に9000円分の地域クーポンがもらえると知る。面倒だが、これは、チェックインしなくては。

ということで、セントレア空港についてから、ホテルチェックインまで、空き時間となった。その時間に、東山動物園に行くことを思いついてしまった。

地域クーポンの使い方について、相方に相談したところ、「モンベル」で「シュラフ」を買うように、品番号まで指定を受けた。

つまり、われわれのその日のスケジュールはこうなる。

彼杵からバス→長崎空港→セントレア空港→藤が丘駅までバス→東山動物園→伏見のホテルにチェックイン→地域クーポンをゲットして、栄のモンベルでシュラフを買う→藤が丘のコインロッカーで荷物ピックアップ→友人の車で実家に送ってもらう。

この、ものすごいスケジュールを思いついてしまった時、「さすがに、ちょっと、、、」と思いながら、ナノカに相談した。「行きたい」と言う(当然だ)。ものすごく歩くことになること、自分で選んだのだから、「疲れた、はナシだ」と約束した。 

疲れたのは、わたしだ。 ナノカは見たかった「ライオン、トラ、ゴリラ、ゾウ、ツシマヤマネコ、コアラ」を探し、広い園内をこっちの端からあっちの端まで歩き回った。最後には、お土産を選ぶために、3つのショップを回った。実家に着いて、万歩計を見ると、19,546歩だった。

動物園は、本来、いるべき野生の環境から、連れ出された動物たちが暮らす、不自然な場所だが、同時に、生き物の置かれた状況を切実に教えてくれる場所にもなっている。絶滅危惧種の表示に加え、なにが、彼らの生育環境を奪っているのか教えてくれる展示があり、ナノカには興味深かったようだ。

「かわいい!」「かっこいい!」「すき!」の向こう側に、社会の矛盾や、人間との共生のヒントが見える。感じることができたのなら、幸いなり。

コロナ後初、祖父母や、親戚の顔を見ることができて、ホッとした数日間。わたしは、燃えつきちゃって、茫然としているが、ナノカはいかがなものだろう。