2022年9月6日

読書感想文 writing

 

台風にて、休校。朝から、我が家も涙、涙の大嵐である。というのも、、、

昨日、休校になることが決まって、宿題を持ち帰ってきた。読書感想文である。

学級代表で誰かが書かなきゃいけなくなって、他に誰もいなかったので、引き受けたと言う。課題図書を読むところまでは、順調だった。

さて、文を書こう、という段になると、1行ずつに、「どう思う?」と聞いてくる。そして、3行書いて、2行消して、を繰り返す。なんとかのマーチ状態だ。これで、終わるか?

もっと「大筋の流れを考えてみたら?」とアドバイスしたら、泣いた。

別に、いい文章を書かなくてもいい。自分の思いを言葉にできれば、どんなものでもいい。わたしは、そう思っちゃうのだけど、正解をたたき出そうとして、臆病になっているように見える。

わたしには、1行ごとに悩む意味がわからない。どっちの文章でも、それほど違いがないように思う。ざっと書いて、あとで、修正すればいいのに。その一言で、また泣く。

わたしが、いるせいで、自由に書けないのか?

部屋を別室に変えてみた。

そもそも、読書感想文って、なんなのだろう。書評ってことか?それとも、本にまつわり、自分のおもしろ話でも聞かせるべきなのか。

すったもんだで、1日かけて、書き終わった。あとは、清書するだけ。頭が痛いと言っている。脳を使いすぎたのか。

2022年9月5日

リトルアーティスト「かさねて、つくる色」Little Artists "Color made by colors"

今回は、色を重ねてできる効果を使って、絵を描くことにした。

もともと、日本画と、油絵など洋画の絵の描き方は、違う。

わたしが、最初に個人的に絵を習った先生が日本画の方だったこともあり、日本画の見方もわたしには馴染み深い。日本画は画材の特徴もあり、色をパレット上で混ぜるのではなく、重ねることで、ねらった色に変化させていく。子ども達にも、背景を空気のように、重ねて作っていくことを、体験してみて欲しいと思い、今回のプロジェクトになった。使うのは、アクリル絵の具。日本画の画材ではないけれど、「重ねる」というところを体験する。

 参考になる画家の作品を見て、色見本を見る。自分でも色を重ねるサンプルを作った後、それを参考にベースになる色、重ねる色を決めて、作品を作った(彼杵では、時間の関係で、色見本を作る工程を省いた)



シンプルに、色を重ねた効果を楽しんで、それを遊ぶように、作品に仕上げた、子ども達。ふだん、原色をそのまま塗ったままだったり、混ぜて作った色が意外に沈んだ色になってしまうことに比べて、重ねて作る色の透明感に、ワクワクしている様子が伝わってくる。

色見本を見て、どちらも「夕やけ」を描きたい、と思った子たち。最初に作ったピンクが鮮やか過ぎて、色を重ねたり、さらに、絵を描くことに戸惑う様子も。それでも、だんだんと、描き入れてみて、新しい発見、美しさに気づく。手と目で、「新しい」に出会う。
こちらは、最初に見せた日本画の作品に、感銘を受けたようで、シンプルな構図を選び、視点も、水の流れと岩、というとても、日本画的なテーマを描いた。最初に参考で見せる画家の作品は、プロジェクトを言葉ではなく、感覚で理解してもらうためのものだけど、流してみてもらって、構わないと思っている。でも、時々、その作品が、ものすごく響く子がいる。

 リトルアーティストに来てくれている子の中には、毎回のプロジェクトの意図をしっかりと受け止めて、その内容に応えようとする子がいる(わたしは、新しい経験ができるように、プロジェクトを組んでいるので、なんとなく参加してくれるだけでも、じゅうぶんだと思っているのだけど)。すると、プロジェクトによって、しっくり自分のものにできるものと、なかなか苦労する会が出てくる。気持ちよく描けた会も、葛藤のあった会も、それぞれ、意味がある。まじめで、情熱的だからゆえに、葛藤が続いてるな、と子どもから感じることもある。それでも、続けて通ってくる様子を見ると、葛藤自体は、その子にとって、決して、いやなことではないのだな、と思う。試行錯誤の中で、大きなものを得た瞬間を見ることもある。その時の顔の輝きは、なんとも言えない。


 大人が加わってくれることもある。大人は、それぞれの人生が絵の取り組みに表れて、とても興味深い。一緒に描いていると、子どもと大人は、互いに刺激になると感じる。大人ゆえのアートが、もっと身近になるといいなと思う。

 2回同じ内容で実地して、ここにない、ステキな作品がいっぱいあったが、抜粋してある。

2022年9月1日

2022 夏

 夏の間に、娘がでかくなった。測ってみると、身長が1学期の測定より5センチ伸びていた。足もでかくなって、トウシューズもサンダルもサイズアウトである。 

 成長期なのだ。 疑いようもなく、大きくなっている。

 そうした、子どもから大人へと、成長しています!という人と40日間過ごすのは、まあまあ大変だった。

 この年齢になると、子も、こっちに気を遣ってくれる。何ができなくて、何ができるかを考慮の上、誘ってくる。無茶なワガママは言わない。

 逆に言うと、向こうの提案は、断れない。めんどうくさい、暑いからは理由にならない。都合をつけて動いていると、意外と引きずり回されてることに気づく。

 そして、宿題も、行動も、高度化してくる。即答できないような質問を、気軽にしてくる。移動中に、発電の仕組みを聞かれたけど、電気というものがなんなのか、わたし自身の中であいまいだと気づく。本を読んでみたけど、やっぱり、わからない。そんなこんなで、一日中一緒にいると、重たい。

 最後の5日間は、自由研究のまとめだったが、あいまいな理解で実験をしていたようで、まとめの段階で、固まる。「水蒸気蒸留で、なぜ、エッセンシャルオイルがとれるのか」、二人で、頭を悩ませた。「TLC」クロマトグラフィーって、なに?わかっていない母が、わかっていない娘に説明しようとするから、もはや大混乱。

 9月1日になって、登校して行って、ホッとした。多分、向こうも同じだと思う。「ママとパパと遊ぶのは楽しいけど、ちょっと飽きた」と言っていた。それが、まともな感覚だと思う。

 しんどいのは、この成長中の生き物と活動することで、自分がいかに、ものごとを曖昧なまま、流して生きているか、問われるからだろう。娘は、新聞記事を読んで、気候変動の番組を見て、自分なりに発電のアイデアを考えようと思ったのだ。一方、こちらは電気がなんなのかもわからないまま、ただ消費している。わたしが、発電の装置を開発することは、もうないだろうけど、発電のアイデアを考える人たちを育てる役目は、残っているのだと思った。

 たいそう疲れたので、今日1日は片付けと休憩をもらって、明日から、自分の仕事と思考に戻りたいなと思う。