2022年10月25日

自由に育つイモ Organic Sweetpotato kids

 

ラジオで、「コスパ」「タイパ」の話をしていた。すべてに、費用対効果、時間対効果を求めがちな時代なのだと言う。

子どもの活動で、結果を求められるな、と感じることがある。文化芸術に親しむことや、さまざまな年代の善意に触れて育つことの価値はプライスレスだと思うが、なにせ子どもが育ってからわかる「よかったね」だ。結果も多岐にわたるし、確実性もない。多忙な生活に追われた子育て世代に、あえてそれに時間やお金を費やすことのメリットを伝えるのは、難しい。

先日、有機農業の田んぼの稲刈りを見せてもらった。下草が生えてるけど、ちゃんと米は実っていた。有機農法は、同時にいろいろ試していくので、合鴨がよかったのか、品種がよかったのか、よく、わからない。これはよさそうねーという事を重ねていって、実りを得る。

大学でもらったサツマイモの栽培比較データでは、化成肥料の量を半分にしたら、芋が激減するというのをグラムで計って、データにしていた。これは、わかりやすい。

大学のサツマイモ的わかりやすさ。これをする→かしこくなる。

昨日、うちもサツマイモを掘ったけれど、なんでこれぐらいの大きさになったのかは、複数の要因がからみあってて、よく、わからない。結局、来年も、今年や去年のあれこれを考えながら、やっていくんだと思う。うちの畑には、なにがなんでも、イモをこれぐらいとらないと生活が成り立たない、までの切迫感がないから、のんびり「自由に育つイモ」を見守れるのかもしれない。

自由に育つイモであれ。

と、子に言ってやれたらな、と思う。

2022年9月6日

読書感想文 writing

 

台風にて、休校。朝から、我が家も涙、涙の大嵐である。というのも、、、

昨日、休校になることが決まって、宿題を持ち帰ってきた。読書感想文である。

学級代表で誰かが書かなきゃいけなくなって、他に誰もいなかったので、引き受けたと言う。課題図書を読むところまでは、順調だった。

さて、文を書こう、という段になると、1行ずつに、「どう思う?」と聞いてくる。そして、3行書いて、2行消して、を繰り返す。なんとかのマーチ状態だ。これで、終わるか?

もっと「大筋の流れを考えてみたら?」とアドバイスしたら、泣いた。

別に、いい文章を書かなくてもいい。自分の思いを言葉にできれば、どんなものでもいい。わたしは、そう思っちゃうのだけど、正解をたたき出そうとして、臆病になっているように見える。

わたしには、1行ごとに悩む意味がわからない。どっちの文章でも、それほど違いがないように思う。ざっと書いて、あとで、修正すればいいのに。その一言で、また泣く。

わたしが、いるせいで、自由に書けないのか?

部屋を別室に変えてみた。

そもそも、読書感想文って、なんなのだろう。書評ってことか?それとも、本にまつわり、自分のおもしろ話でも聞かせるべきなのか。

すったもんだで、1日かけて、書き終わった。あとは、清書するだけ。頭が痛いと言っている。脳を使いすぎたのか。

2022年9月5日

リトルアーティスト「かさねて、つくる色」Little Artists "Color made by colors"

今回は、色を重ねてできる効果を使って、絵を描くことにした。

もともと、日本画と、油絵など洋画の絵の描き方は、違う。

わたしが、最初に個人的に絵を習った先生が日本画の方だったこともあり、日本画の見方もわたしには馴染み深い。日本画は画材の特徴もあり、色をパレット上で混ぜるのではなく、重ねることで、ねらった色に変化させていく。子ども達にも、背景を空気のように、重ねて作っていくことを、体験してみて欲しいと思い、今回のプロジェクトになった。使うのは、アクリル絵の具。日本画の画材ではないけれど、「重ねる」というところを体験する。

 参考になる画家の作品を見て、色見本を見る。自分でも色を重ねるサンプルを作った後、それを参考にベースになる色、重ねる色を決めて、作品を作った(彼杵では、時間の関係で、色見本を作る工程を省いた)



シンプルに、色を重ねた効果を楽しんで、それを遊ぶように、作品に仕上げた、子ども達。ふだん、原色をそのまま塗ったままだったり、混ぜて作った色が意外に沈んだ色になってしまうことに比べて、重ねて作る色の透明感に、ワクワクしている様子が伝わってくる。

色見本を見て、どちらも「夕やけ」を描きたい、と思った子たち。最初に作ったピンクが鮮やか過ぎて、色を重ねたり、さらに、絵を描くことに戸惑う様子も。それでも、だんだんと、描き入れてみて、新しい発見、美しさに気づく。手と目で、「新しい」に出会う。
こちらは、最初に見せた日本画の作品に、感銘を受けたようで、シンプルな構図を選び、視点も、水の流れと岩、というとても、日本画的なテーマを描いた。最初に参考で見せる画家の作品は、プロジェクトを言葉ではなく、感覚で理解してもらうためのものだけど、流してみてもらって、構わないと思っている。でも、時々、その作品が、ものすごく響く子がいる。

 リトルアーティストに来てくれている子の中には、毎回のプロジェクトの意図をしっかりと受け止めて、その内容に応えようとする子がいる(わたしは、新しい経験ができるように、プロジェクトを組んでいるので、なんとなく参加してくれるだけでも、じゅうぶんだと思っているのだけど)。すると、プロジェクトによって、しっくり自分のものにできるものと、なかなか苦労する会が出てくる。気持ちよく描けた会も、葛藤のあった会も、それぞれ、意味がある。まじめで、情熱的だからゆえに、葛藤が続いてるな、と子どもから感じることもある。それでも、続けて通ってくる様子を見ると、葛藤自体は、その子にとって、決して、いやなことではないのだな、と思う。試行錯誤の中で、大きなものを得た瞬間を見ることもある。その時の顔の輝きは、なんとも言えない。


 大人が加わってくれることもある。大人は、それぞれの人生が絵の取り組みに表れて、とても興味深い。一緒に描いていると、子どもと大人は、互いに刺激になると感じる。大人ゆえのアートが、もっと身近になるといいなと思う。

 2回同じ内容で実地して、ここにない、ステキな作品がいっぱいあったが、抜粋してある。

2022年9月1日

2022 夏

 夏の間に、娘がでかくなった。測ってみると、身長が1学期の測定より5センチ伸びていた。足もでかくなって、トウシューズもサンダルもサイズアウトである。 

 成長期なのだ。 疑いようもなく、大きくなっている。

 そうした、子どもから大人へと、成長しています!という人と40日間過ごすのは、まあまあ大変だった。

 この年齢になると、子も、こっちに気を遣ってくれる。何ができなくて、何ができるかを考慮の上、誘ってくる。無茶なワガママは言わない。

 逆に言うと、向こうの提案は、断れない。めんどうくさい、暑いからは理由にならない。都合をつけて動いていると、意外と引きずり回されてることに気づく。

 そして、宿題も、行動も、高度化してくる。即答できないような質問を、気軽にしてくる。移動中に、発電の仕組みを聞かれたけど、電気というものがなんなのか、わたし自身の中であいまいだと気づく。本を読んでみたけど、やっぱり、わからない。そんなこんなで、一日中一緒にいると、重たい。

 最後の5日間は、自由研究のまとめだったが、あいまいな理解で実験をしていたようで、まとめの段階で、固まる。「水蒸気蒸留で、なぜ、エッセンシャルオイルがとれるのか」、二人で、頭を悩ませた。「TLC」クロマトグラフィーって、なに?わかっていない母が、わかっていない娘に説明しようとするから、もはや大混乱。

 9月1日になって、登校して行って、ホッとした。多分、向こうも同じだと思う。「ママとパパと遊ぶのは楽しいけど、ちょっと飽きた」と言っていた。それが、まともな感覚だと思う。

 しんどいのは、この成長中の生き物と活動することで、自分がいかに、ものごとを曖昧なまま、流して生きているか、問われるからだろう。娘は、新聞記事を読んで、気候変動の番組を見て、自分なりに発電のアイデアを考えようと思ったのだ。一方、こちらは電気がなんなのかもわからないまま、ただ消費している。わたしが、発電の装置を開発することは、もうないだろうけど、発電のアイデアを考える人たちを育てる役目は、残っているのだと思った。

 たいそう疲れたので、今日1日は片付けと休憩をもらって、明日から、自分の仕事と思考に戻りたいなと思う。

2022年8月29日

自由研究 Independent Reserch during summer


 なつやすみも、あとわずか。さっさとドリル系の宿題を済ました娘は、一夏をかけて、自由研究をしてきた。

 今年は、早々にやりたい事が決まった。薬草の蒸留だ。それに関して、太良のみかん加工所に見学に行ったり、自作の実験装置を試作したり、大学の薬学部の先生に分析の方法を相談したりした。まあまあなボリュームの材料が集まっている。あとは、まとめるだけだ。

 

 先日、自分で写真を選び、注文していた。

 

 去年の「忍者が着ていた服」は、かなり手伝った。まとめ方がわからず、泣きじゃくるので、叱咤激励しながら、言葉も一緒に考えた。 写真も、わたしが選んで注文した。これだけ手伝ってしまったら、娘の作品と言っていいのだろうか、と思ったが、一人では、形にできそうになかった。どこまで手を出していいのか、悩みながら、かなり、手も口も出した。

 

 今年は、だいぶ違う。去年、一緒に取り組んだノウハウが、彼女の中に蓄積されて、やれる部分は確実に増えた。

 

 去年のあれは、手伝っても大丈夫だったんだなと、ホッとした。親が介入すると、子どもの探究心や自立心がつぶれるんじゃないかと、心配していた。でも、ちゃんと探究心も自立心も進歩していた。教育とか育児には、いろいろな説があふれていて、何をしても、不安に感じるから、やっかいだ。

 

 今回のテーマは、わたしもあんまり得意じゃないことだった。 そのせいもあって、失敗して、二人して、あたふたした。でも、失敗したから、悩んで、改善する、という経験ができた。それだけの余力のある経験は、まさに、夏休みぐらいにしか、できない。

 

 そもそも、夏休みの宿題なんて存在しない国もあるし、それもよいなあ、とも思う。でも、宿題があるならあるで、学ぶところもある。個人の向き不向きもあるだろう。どんな内容で、どこまでの規模でやるかが本人に任せられている自由研究を、うちの娘は喜んでいた。でも、好きじゃない子も当然いる。夏休みの宿題、悲喜こもごも。何が正解なのか、わからない。

 

 ガタガタ何が言いたいかというと、、、ドタバタで、手伝いにも手がかかったけど、一緒にやった私も、まあまあ楽しかった、ということかな。あと数日、なんとか、終わりそう。

2022年6月24日

バースデーは、しあわせな時間 Happy Birthday is Happy time

バースデーケーキは、そのぎ抹茶シフォン、あんと生クリーム添え、です。

大好きなお友達一家と祝う、11歳。

恒例の、その年のティアラ。今年は、小ぶりな上品なものを提案したら、喜んで冠ってくれました。

 今年のお誕生日プレゼントは、ハンディマイクロスコープ。わたしからは、ナノカのために描いた絵を額に入れて。パパからは本を。そして、友人達からの心のこもったプレゼントを手にして、幸せいっぱいの時間。

 週末、ナノさんの親友一家が、誕生日のお祝いに来てくれた。

 ちょうど1年前にも同じように集まってくれたので、その時から1年経ったのだなあ、と感慨深い。

 1年前のパーティのときは、青白く痩せて、親しい人以外に会うのはまだまだ億劫そうだった。それが今、前以上に元気で、幸せにあふれた姿を見ていると、この姿を守れたことだけで十分だなあ、と思える。

 今日の朝、サバイバルの話になった。オオカミがどうやって生き延びていくのか、という話をしていて、「サバイバル能力」て、置かれた社会によって違うなあ、と思ったからだ。

 ナノカに聞くと、彼女にとってのサバイバル能力は、「人と、うまく付き合っていく能力」だと答えた。なるほど。今、彼女がどういう社会に生きて、今までに、何を経験してきたかを考えさせられた。

 サバイバルキャンプだとかに使われている言葉だから、サバイバルって、野外で生き残る荒々しい力のことをイメージするけれど、人が生き残っていくための能力は、違うのかな、と思う。現代なら、現代の、そして、これからは、これからの。いる国、タイミング、情勢で生き延びる力の意味が変わってしまう。人間の宿命。

 この1年で、本当に、大きく成長したナノさん。

 強くて、やさしい。思慮深くて、ポジティブ。わたしにないものを、いっぱい持っている。

 その姿を見てると、親は立派じゃなくても、子は育つんだなあ、と思う。できなかったことだらけの母だったけれど、少なくても、わたし達からの愛は伝わったのだろう。自分の存在に自信を持っているのは、わかる。これなら、あとは時代に合わせて、サバイバルしていってくれそうな気がする。

 お誕生日、おめでとう。1年間、いっぱい、楽しいことをしていこう!

2022年6月13日

リトルアーティスト「みんなで、へいわを描く」

創作活動というのは、個人的なものと思われています。学校でも、家でも「じぶん」を見つめて、「じぶん」を表現することを求められるのが、ほとんどでしょう。でも、実社会では、いろんな場面があります。大きなプロジェクトをみんなですることもあるだろうし、共同で何かを作っていくこともあります。

自分の思い、相手の思い、全体の目的などを、話し合っていき、その中で自己実現もできたのなら、すばらしい機会になるだろうなと思いますが、学校の大人数と限られた時間、固定のメンバーでは、お互いの顔色を見て、現状、すぐには難しいだろうな、と感じます。

ということで、リトルアーティストで、共同作業を取り入れたプロジェクトをやってみたい!と、ずっと考えていました。今回、コロナがちょっと落ち着いたこの時期を見計らって、やってみることにしました。

みんなで大きな紙をつかって1枚を描くのではなく、 それぞれの屏風型の長細い紙を、並べて1枚とすることにしました。

平和に関するイメージを、みんなであげていって、それから、どんな風に取り組むかも、話し合います。みんなで大きな一枚を描くか、一人一人が考えた絵を描いて、つなげるか。

参考作品を見る。それから、話し合い。
それぞれ、自分の絵を描いてみることになった。

おや、太陽が何個もある。川が途中で切れてるよ、など、気づいたことを、アイデアを出し合って、修正していく。

それを、並べて、下がきしてから、それぞれで仕上げる。

並べると、1枚の作品となり、それぞれも、絵になっている。

自然の中で、本を読む。静かな、日本画のような構図と、抑えられた色彩。ていねいに塗りこむことで、淡い背景の中で伝えたいものに目が行くように構成されています。

山並みと木々と人を、春夏秋冬を一枚の中に取り入れたて描き、シンプルな形の連続が、デザイン画のように、おもしろいものとなっています。遠近があって、楽しい構成になっています。

このまま手ぬぐいにしたくなるような、全画面をとてもにぎやかに構成した作品。長四角のくせのあるキャンバスの形を、めいいっぱい楽しく彩りました。色の配色も赤が活きる、黄、水色、緑、茶がちょうどいい配分で全体に散りばめてあります。

描きたいもの(気球)がどっしりと描かれていて、楽しい色で描けました。楽しさが伝わってきます。魚の模様とか、気球の模様とか、細かい所に個性が光っていました。大きな紙だったけど、よく集中して、全体を見れていました。

独特の淡い色合いで、夕焼けの空をきれいなグラデーションで、楽しそうに描いてくれました。鳥さんたちも、いろんなタイプがいて、空が大きくて、気持ち良さそう。大きな画面なのに、臆せず、自由に描いてくれました。地面に選んだ黄茶色もいいですね。


 最初はシャイになってしまい、また難しい質問も多かったので、言葉がなかなか出てこない場面もあったけど、手を動かしたり、図になったものをみることで、徐々にまとまっていきました。

「個性」をのばせ!とはいうものの、個を強調し合うだけでは、社会ではうまくいかない場面も多いと感じます。「個」がそれぞれ、生き生きとするためには、社会や人とのコミュニケーションが大切な場面も多く、今回のプロジェクトは、個とコミュニティが両立できることを意識しました。

実際、子ども達は、互いにコミュニケーションをとりながら、それでも、自分の世界を作り上げていて、こんなのもいいなあと思わせてくれました。また、取り入れたいと思います。

2022年4月6日

カンコロの島紀行3月

3月の連載記事です。

今回は、信仰の話にしました。いつもより、個人的な話をしています。

わたしは、神様の存在が半信半疑で生きている、宙ぶらりんな人間です。

いると信じることもできないのに、いないとも思えない。こんな感じになっているのは、多少なりとも、私の生育歴が関係あるんだろうな、と思います。わたしは、スピリチュアルに傾倒することに、拒否反応があります。

ただ、人間の歴史の中で、信仰がとても大きな存在であり、文化のど真ん中にあり続けたのは事実でしょう。それは、人は生きて死ぬから、そして、考える生き物だからなのではないでしょうか。

宙ぶらりんなのに、とても、興味がある。宗教美術にとてつもなく美しさを感じるし、宗教音楽に涙するほど感動するし、聖書も物語として、とてもおもしろく感じます。神的なものに敬意を感じ、信仰を持つ人の横顔に憧れます。でも、一線を置いてしまう。

こんな母に連れまわされた娘も、どこの宗教施設へ行っても礼を尽くして、ふるまいますが、やはり神様のことはわからないんだな、と思いました。

信仰を先祖から引き継いだ人の心の内を見せてもらい、わたしの迷いだらけの疑問に答えてもらえて、とても興味深かったです。

2022年3月9日

「人のはなし」を聞くのを辞めてみた I stopped listneing to people and tried to choose.

そんな訳で、読もうと努力。社会主義のその後をほとんど知らなかった。難しい、、、

 ここ1年、「人のはなし」と「現実」のギャップにとまどってきた。

 それまで「おもしろいな」と思っていた人が話すことと、自分の身に起きたこととの間に溝ができ、その溝がマリアナ海溝のように深かったからである。

 そのことは、とても不安定な気持ちにさせた。

 今まで、気に入った作家の作品を読み、うんうんとうなづき、気に入ったラジオを聴いて、なるほどと思ってたのだけど、これから先何を信じたらいいのだろう?と思ったからだ。

 なにか勘違いをしているのだろうか?でも、実際目で見て体験したことほど、確実なものはない。

 世界が嘘だらけのように感じて、なにを信じていいのか悩んだ。そして、当たり前といえば当たり前の結論に至る。

 人は、わりと、まちがえる。

 ある一つの専門家であっても、他のものごとに関しては、詳しいわけではない。それぞれが、自分の持ってる情報から、「私見を」述べているだけなのだ。それ以上でも、それ以下でもない。当然、まちがいもある。

 すこし考えればわかることなのに、人の脳みそは頑固だ。一度「いいこと言うなあ」という体験をしていると、その人が言うことは他のことまで正しいように思ってしまう。

 世界は、私見であふれかえっている。私見がいけない訳じゃない。「人のはなし」は、それぞれがそれぞれの思いで語っていて、その中にはよい情報もある。率直な思いが、人を動かす。好物や趣味程度の話なら、私見ベタベタの方がおもしろいぐらいだ。

 でも、いくら賢い人の意見であっても、私見には、井戸端会議のおしゃべり程度の確実さしかないものもある。ジャッジが難しいことに対して、社会的責任をともなう事柄に関して、確証なしに影響力最大で垂れ流されている情報もある。それらは、責任を取る覚悟で発信されてるだろうか?

 そう考え始めたら、情報の海が、魑魅魍魎がぷかぷか浮いた、混沌としたものに見え、船出する前から船酔いしそうになった。

 このままじゃダメだと、一度「人のはなし」を聞くのを辞めてみた。

 できるかぎり、その分野の専門家の見解を読み、より当事者に近い人の話を聞いた。考察は公正であるか、データは正しいか、十分な母数あるか、改ざんや切り取りはないか、検証しなくてはいけない。それは素人にはできないから、研究者を信用することにした。研究者は、感覚で論文を書いてはいけないからだ。

 より責任を持って発信されている情報を集めるようにしたら、一個の行動をするのに、一個の発言をするのに、今までの何倍もの時間がかかるようになった。

 先日の知事選も、わたしはそのようにして過ごした。候補者の討論番組を見せてもらい、選挙公報を読んだ。そして、自分だけで決めて、一票を投じた。

 気持ちが落ち着いた。なんだか、混沌の中で、羅針盤を見つけたような心地になった。

 そうして、人のはなしを聞くのも、また楽しめるようになった。そうかもね。どうかなあ。違うんじゃない?いやいや、それは、言っちゃいけないことでしょう。それは、ぜひぜひ、みんなにも伝えるべきだね。

 そう。いろいろだ。人はまちがえる。立派そうな人も、めっちゃ、まちがえるのだ。

 自分の目で確かめるというのは、とてもとても、手間と時間と心を使うことだけど、子どもには、めんどうな作業の大切さを知ってほしい。パッと目で見たから、はなしを聞いたから、そう感じたから行動するのではなく、情報を選んで確かめて、その後のことを想像しながら動いてほしい。

 それは、大人の自分にも難しかった。だから、「そうしなさい」ではなく、「いっしょにがんばろう」だ。

2022年3月1日

カンコロの島紀行2月 Goto Aricle Feb

 


 カンコロ紀行、2月分。

  キリシタン迫害の歴史は、どちらかというと、記事で触れないようにしてきた。

 悲劇の物語の部分を強調することで、今、ここにある文化を伝える趣旨から、ズレていくように思ったからだ。

 また、加害者も日本人であったという事実。だれかを傷つけることにもなりかねないし、センシティブで取り扱いにくかった。

 今回、そこにスポットライトを当ててみることにした。今、人や社会の歴史から、学ぶべきことがあると思ったからだ。

 キリシタンたちを転び(棄教)させるために行われた拷問の数々は、想像を絶するものばかりだ。布に包んで、海の中に沈めて、絶命前に引き上げて、を繰り返したり、火の中に生きたまま吊るしたり、無理な体勢に縛り上げて力を加えていく、指を切る、鼻を削ぐ、爪の間に針を入れる、などなど。

 恐ろしいのは、すぐ死なないように、長時間苦しむように工夫されていたことだ。5日間、10日間と、その苦しい時間が続くように考えられている。また、その様子を晒し者にした。見せしめの意味もあったからだ。

 今から考えると、常軌を逸してたとしか思えない、非道な行為の数々だが、これは、時の中央政府が決めた「禁教」という法律にのっとっていて、違法者への処罰として、正当なものであった。

 キリシタン側から見てみれば、数十年前まで藩主が推奨して、キリシタンが国教のようになっていたところに、秀吉がキリシタン追放令を出し、江戸幕府が禁教にした途端、日本中が一変。突然、ただ信じているだけで罪人になり、残酷な殺され方をされるようになった訳だ。

 どれだけ残酷か、という点を知っても、息苦しいだけかもしれない。ただこの歴史を通して、一般人は社会の中でこんなに弱いのだということ、権力者の意向は絶対的な方向性を持つということは、理解しやすいのではないだろうか。

 人間は、社会の中で生きる動物。社会がどうあるかで命を左右されるのは、避けられない。そんな中、一線を越えた残酷なことが起こらないように、苦しみの歴史を知るのは意味があると思う。

 今、この時も、世界のどこかで、だれかが苦しんでいる。いくらでも残酷になれる1面を持つ、人間という生き物。それぞれの国に主権があるとはいえ、「たが」が外れないよう、世界的最低限の基準があったのなら、と思う。だれも、こんな風に、自分や家族を失いたくない。

2022年2月11日

オンラインでカードづくり Card making on line

ひさびさのオンライン。カードの作り方を、サンプル作品を使って、説明します。

 そのあと、みんな、それぞれ、制作しました。

 画面の中での交流にはなりましたが、日本じゅうに散らばった「創るの大好き!」な子ども達、大人たちが、一緒に作るので、盛り上がります。

 東京、愛知、長崎から、10組の参加でした。場所によっては、学校も閉鎖になったり、かなり行動制限も増えてきているとのこと。今後も、こんな風に、すこしでも、人の顔を見ながら、楽しい時間を過ごしていけたらと思います。

できあがりを送ってもらったものを、紹介します。

クマが、右にしっかり配置されて、それ以外の画面いっぱいのリボンががステキ!色の使い方も、ベースになった色画用紙と、クマやリボンに使った色がしっかり、分けて考えられていて、すごく見やすくて、あかるくて、かわいいですね。
かすれ具合が、なんとも言えないポケモンボール。ポケモンボールでありながら、アンディウォーホルのポスターみたいな、オールドアメリカンな雰囲気も漂ってます。Mのスタンプが、細身なのも、かっこいいです!

同じ型を使って、こんなにバリエーションゆたかに、それでいて、共通したかわいらしさを作れるのがすごいですね。作業がとても、クリーンにできていて、要素がしっかり見えます。楽しさが伝わってきますね!

こちらは、チューブ型の絵の具ではない水彩を使ったので、すこし、ちがった印象になっています。水彩のぼかしが、味わいになっていますね。鳥のひとみに、光を入れたことで、ぼんやりした印象の鳥が生き生きしていて、効果的です。

こちらは、3版も型を作って、刷りました、ポケモンボールです。厚めに刷ったのが、白のベースに合っているなあ、と思います。こっちのポケモンボールは、油絵っぽいですね。

よく見たら、これは、金のベース紙なのでしょうか?とても、シンプルなデザインながら、ムダがなくて、かっこいいですね。花をブルー、他をすべて赤、というのも、とても、オシャレな組み合わせです。ベースの紙も合わせて、違う色バージョンも考えたら、おもしろいですね。

黄緑のウサギちゃん?かな。黄緑にしたことで、リボンがとても、目立って、かわいくなりました。とても、いい選択ですね。この耳長のウサギ?トトロ?の形も、個性的で、かわいらしいです。

これも、ポケモンボールかな。2種類の技法を、大きさを変えて、おなじものを刷りました。黒のベース紙に映える色を、よく考えてあるな、と思います。ハードボイルドな感じで、いいですね。

2022年2月9日

晴読雨読 reading in the rain and in the sun

 

「雨の降る日って、本が読みたくなるんだよね。」

と、ナノカが言う。

「でも、晴れた、ポカポカした日も、本が読みたくなるんだよね。縁側で、本を読むの、サイコー。」

とも言う。 そして、

「4字熟語で、そういうのあったよね?」

というので、それは、晴耕雨読って、晴れてるときは、働くんだよ、と答えると、

「ふーん、じゃあ、わたしは、晴読雨読かあ。」

と続ける。うまいこと言う。

「あ、でもね。 晴れてる時、わたしは、散歩にすこし行きたいな。それで、人間を観察したい。それが、楽しい。」

「あのね、今日、クラスメートが遊具をめぐって、言い争いになったんだけど、そうなってる間に、全然違う子が、遊具で遊んでたんだ。そういうのって、すごい、おもしろくない?」

それが、観察したいおもしろいこと?ちょいと、悪趣味ではないかい?


 でも、ヒマがあり、本を読むことさえできたら、幸せだと言う人の話は、なかなかに、示唆があるなあ、と思った。

 ともすれば、達成しなくてはいけない課題に追われ、その先にしか、幸せな人生がないと思わされる社会。実際、人生の節目には、乗り越えるべき壁が立ちはだかる。しかし、運・不運、実力やその他もろもろの要素が重なって、結果が得られないことだってある。

 そういう時、生きていくだけの衣食住があれば、あとは、本と、読む時間があれば、幸せでいられる、という価値観があることも、覚えていたい。

2022年2月1日

カンコロの島紀行「聞け、島の子の声」Goto Article January

 



1月のカンコロの島紀行。高校生弁論大会について書きました。

 初めて、高校生の弁論を聞きました。自分の子どもが出場するわけでもなかったら、弁論なんて、聞く機会もなかなか、ないんじゃないでしょうか? 

 弁論は、人が一方的に話すのを聞くことになります。小学校の時の、校長先生の挨拶に始まり、卒業式の来賓の挨拶など、相当、話し上手な人でもない限り、人の話を一方的に聞くのはおしなべて退屈で、睡眠との闘いであった記憶しかありません。しかし、新上五島町の高校生弁論大会は、8人分、そして、教育長や女性部部長の話に至るまで、興味深く、しっかりと聞くことができました。

 人が話す時、それが、どれほど自分ごととして真剣に考えらえ、心からの言葉なのかで、こうも違うのかと思いました。(政治家のみなさんの言葉も、彼らの島を思う気持ちと同じぐらい、真剣に自分のことを話してくれたら、興味深く、聞けるのかもしれませんね)

 この弁論大会を見るために、朝から家族3人で船に乗り、日帰り特攻旅行で、最初は、付き合わせてゴメンという気分でしたが、相方も、ナノカも、衝撃を受けていました。

 自分の言葉で話すというのは、なかなか、勇気がいることです。それも、人生について、語るわけです。そのまっすぐさに、強さを見ました。

 わたし達は、このように恐れなく、まっすぐと、言葉を発せられるでしょうか?わたしは、できていません。大人の社会は、残念ながら、多くの言葉があちこちで、ふん詰まりになって、耳心地よく聞こえるけど、震えるような真剣さがない。そのことに、気づいた時間でもありました。

 高校生が、まっすぐな言葉を放ち、しっかりと受け止められる場として、この弁論大会があって、本当によかった。それを支えている人々にも、敬意を感じます。こういう場が、自分たちの町でもあったらいいなと思います。

2022年1月28日

一緒に、読もう read together

  知人と、書籍の話になった。

 以前、デジタルマガジンの発信をしている方とお話しした時に、「デジタルには、デジタルの文章のコツがある」と教わった。流れるようにやってくる読者を、惹きつけ続けないといけない。その一瞬で興味を引くことができないと、数秒後には、すぐにページを去ってしまうからだ。

 ということで、さっと答えを言ってのけたり、すぐに画像を差し入れたり、おもしろコメントを入れてみたり、いろんなテクニックがあると言う。読みやすく、流れるように、後ろへと誘導していく。いわば、サービスのいい文章なのだ。

 かたや、紙の文章は、ちょっとした構築物みたいになっていて、行って戻って、読み直して、、、しっかりと読まれることを前提としているので、骨組み、土台があって、まあまあ、ものものしい。

 デジタルと紙書籍の違いの話なんてされても、新鮮味ないだろうけど、デジタルに優れてる部分と、紙書籍のよい部分があるのは、本を読む人なら理解してることだろう。

 紙書籍のよさは、「サービスの悪さ」にある。それは、文字がただ羅列してあるだけ。言葉という抽象的なものの組み合わせを、読み手は、自分の感覚や体験の中にあるものに照らし合わせて、理解しなくてはいけない。想像力で埋めていく作業だ。

 サービスの悪さゆえに、読み手が入り込む部分を多く残し、深く関わらせる。心の奥まで行く、深い旅をさせる。脳の体力も消耗する。

 紙の書籍を読む人は、年々、減っている。必要性がなくなったからだ。生きていくために必要な情報は、ネットで取ればいい。そんな中で、「やっぱり、紙の書籍を読んでもらいたい!」と願う、旧書籍時代の活字原人たちは、どんな抵抗ができるだろうか。流れを変えるほどのことは、なにもできない。

 されど、なんにも、やらないのは、どうなんだろう。

 ということで、「なんか、しましょう」と話して、終わった。

「コロナ収まったら、なんかするぞと、原人が、腕まくりする、昼下がりかな」

わが家は、それぞれが読み聞かせをして、みんなで一緒に本を読む習慣があります。これは、今、相方が読んでくれている時代小説。なかなかに、ハードボイルド。

戦国時代の話なので、大河ドラマで見た「明智光秀」とか、わたしが追いかけている「潜伏キリシタン」とか、先日訪れた足立美術館で見た「姿絵」とか、名護屋城とか出てきます。いろんな体験が、本の中で結びつくって、とても、心地よい。


2022年1月19日

文を書こう Writing

 小学4年生は、勉強することがいっぱい。1、2週間ごとに、国語も算数も新しい単元に入れ替わる。どんどん異なった概念が出てきて、手ごわい。こうした勉強を親が教えようと思ったら大変なので、学校で教わってきてくれて助かる。子どもの成長を見ていると、わたしも、大方の基本を小学校で身につけてもらったんだな、と実感する。

 現在ナノカが、学校で好きな課題は、「パンフレットを作る」「本のポップを作る」「プレゼン資料を作る」などの、文章を組み立てる作業だ。楽しそうに、パソコンで調べたり、本から抜粋したりしている。

 先日、「彼杵川の歴史を調べたい」と言われた時は、ネット上でそうした記述を見つけられなかったので、二人で学校帰りに、図書館に行った。彼杵町図書館には、川についてまとめられた資料はなく、「水と緑と土と」という漬物石級の重さの郷土資料から、彼杵川の記述を二人で探して、抜粋することにした。なかなか、大変な作業だったけれど、「ものすごく、楽しかった」らしい。

 ネットの世界は、網羅している分野に、限り・偏りがある。学校では、タブレットでの検索の仕方を覚えてもらうために、ネットを利用することが多いようだが、それだけでは、一般知識以上のものは得られない。いつか、きちんとした文章を書くようになった時には、本や資料室などで、専門的な知識に踏み込む必要が出てくる。

 学校に、学習のほとんどはお任せしているけれど、もし、小学生のプラスアルファを手伝ってあげられるとしたら、そういう「導入」であろうか(図書館に、そういう手ほどきがしてもらえたら、よいなあ)

 そういえば、ホモサピエンスがネアンデルタール人を追いやって、生き延びたのは、喉の位置が違うため、明瞭な発音ができて、言葉による意思疎通ができたからだと聞いたことがある。言葉は、脳内にある情報を人とやり取りしようという、努力の賜物なのだと思った。

 言葉は人によって捉え方に差があるため、内容が複雑になると、間違いなく伝わるようにと、さらに神経を遣う。正確に自分を伝える言葉を模索し、その中から、思想や物語の傑作が生まれていった。ちょっと発音が良かっただけのホモサピエンスが、ここまで発展していったと思うと、すごい!

 でも、そうして努力の末に紡ぎあげられた言葉が、受け止められるとは限らない。言葉足らずなケースだけではなく、相手が受け入れたくなかった場合にも、届かないで終わることがある。

 言葉は、人と人の間に横たわる、あいまいな事実や考えを、明確にしてくれるが、かえってそのことで、反発を食らったり、炎上したりすることがある。相手がハッピーになるような内容のみを綴れば、反感を避けることはできるのだが、それだけでは、言葉は、役割を果たせない。文章を書いた人間が間違ってるのではなく、現実が受け入れがたいのだが、発信者がうらまれる。文章を仕事にするということは、そういう事と隣り合わせだ。

 ナノカが、「いつか、文章を書く仕事もしてみたい」と言い出した。なにか、お手伝いをできないかと思って、日記帳をプレゼントした。ナノカの日記は、人に読み上げて聞かせられるほど、外向けの文章だ。子どもの言葉は、簡潔で、さわやかで、そして、本質を突いてくる。

 これが、社会への疑問となった時、まっすぐな言葉を、大人は受け止める覚悟があるんだろうか?一抹の不安を感じながらも、その気持ちを大切に育ててやりたいとも思う。

 美しい文章をつづった、世界中の先人たちに習い、その末席で、母も子も、言葉を紡ぐ。言葉が、きっと、人をつなげてくれものだと信じて。

2022年1月14日

皿洗いバイト earning money

 

 一昨年、サンタさんに頼むプレゼントに迷って、第2希望の「新しいリュック」を自力で買うことにしたナノカ。皿洗いをまるまる1日分500円として、5000円稼ぎ、見事、リュックを手に入れた。

 今年の冬休みも、お金の話になったので、「去年と同じように、皿洗いのアルバイトしてもらってもいいよ」と言うと、「やりたい!」と言う。ところが、休みが始まっても、遊びに宿題にと、大忙し。 皿を洗う様子はなかった。

 あと冬休みも数日となってから、「皿洗い、やろうかな」と言いだす。そこから2日間、がんばって、1000円を稼いだ。

 冬休みが終わり、朝や昼のお皿洗いはできなくなった。現在、1食分150円でのお皿洗い契約となっている。

 鉄製のフライパン、ご飯を炊いた鍋、ちょっとお高いお皿。扱い方を教え、一つずつ、片付けられるようになった。

 お金がかかっているので、きちんとしようと思うのだろう。普段、お手伝いをしてもらう時には、やり方を教えようとすると、ダメだしをされたと思って、へそを曲げてしまうこともあるのに、妙に素直だ。一気に、片付け上手になった。

 お金の扱いに関しては、家庭によって、マチマチの考えがある。ナノカのお友達は、先日、お小遣いを1年分、まとめてもらっていた。一月500円で、6000円だ。1年で、それを計画的に使うなんて、大人でも、難しい。チャレンジだなあと思うが、やりきれたら、自信がつきそうだ。

 子どものお手伝いに、お金を渡すことに対し、否定的な文を読んだことがある。それをすると、金銭でしか働かなくなる、と書いてあった。逆に、お小遣いを定期的にあげると、社畜になると書いてあった本もあった。なんだか、子どもにお金を渡すのが、恐ろしくなってしまう。

 でも、人生は、お金との付き合いを避けては通れない。触らないまま、大人になって、突然、やりくりするのは、大変。渡し方は、それぞれの考え方があるだろうけど、お金とのお付き合いは、段階を追って、必要だと思う。

 お金のない世の中を目指す思想も見かけるけど、しばらくは、生きていくのにお金が必要そうだ。それに、万が一、貨幣がなくなった世の中が来たとしても、社会に貢献し、そのことで、自分も社会から報酬を得て、生きて行くというスタンスは、変わらないのではないか。そもそも、きちんと、分配がなされていたら、貨幣でも、物々交換でも、いいように思う。結局、必要なものを、必要なだけ受け取って生きて行くことを、わたし達はできていないのだろう。

 縄文時代から、弥生時代に移った時、米を得て、安定した食生活で、人は幸せになるかと思いきや、即刻、身分ができて、戦争が始まった。縄文や弥生文化が好きなナノカに引きずられて博物館に行くと、その話のところで、考えてしまう。弥生時代の遺跡になると、一気に鉄製の武器が、ずらりと並ぶ。

 その時から、ずっと、人は奪うことで、豊かになり、権力を得る、という構図を繰り返してきたんだろう。そう思うと、人間の歴史が、重たく感じる。問題は、お金じゃない。搾取なんだと思う。

 スマホ脳を読んだ。今の人間の脳は、生き延びられた人間たちの脳だ。より多くの食べ物を、欲張って食べる人間の方が、今日の分だけ食べる人間より、生き延びる確率が高かった。それが、過食の原因。長いサバイバルの歴史の中で染み付いた脳の傾向は、今の社会に合っていないかもしれない。SDGsじゃない、わたし達の脳みそ。

 子どもに、お金を触らせるのは、うまく社会を動かす人になって欲しいという希望をこめて。 稼ぐことは、悪くない。使うことも、悪くない。たくさん稼いで、うまく使ったらいいと思う。たくさんの体験を通して、お金の特性を理解して、社会を体感して、広い視点を持って、生きていっておくれ。

2022年1月11日

あたらしい年に New Year Girl

今日から、新学期です。元気に、登校していきました。



 学校が始まるまで、毎朝、一緒に散歩していました。

 氏神様にも初詣に行き、冷たい空気の中、水鳥を見たり、焼きたてパンを買いに行ったり、ゆとりある日常を、楽しみました。散歩が終わると、花を摘んだり、友達と秘密基地を作ったり、日常の細々を、愛するように、幸せそうに、生活していました。

 さて、公立の小学校に戻って、2学期間が終わりました。転校当初は、宿題に追われること、評価を常に意識しなくてはいけないことなど、いろいろ、心配していました。真面目な性分なので、「ねばならない」に、がんじがらめになるのではないかと思ったのです。

 そんな中、2学期の通知表を読んで、 じーんときました。

 そこには、毎朝、ボランティアで落ち葉掃きをしていたことが書かれていました。ナノカから聞いていたので、落ち葉掃きをしていることは知ってたのですが、それを先生が、「創意工夫をし」「時に、仲間に指示を出し」と、とても細かく、見てくれていたからです。

 なぜ、落ち葉掃きをするか、ナノカに前に聞いたことがあります。「気持ちいいんだよ」「無になれるから」と答えていました。見返りを求めず、自分の気持ちだけで完結してることに、尊いなあ、と思ったのを覚えています。だから、評価されなくても、まったく、気にしなかったと思います。

 ただ、彼女の落ち葉掃きの様子を見ていてもらえたことを知って、深い安堵感を覚えました。彼女が持つ、さまざまな特性を肯定してもらった気持ちになったからです。

 人の特性は、ある面では、長所にもなるし、短所にもなる。親から見れば、よいところに見えても、所属する社会から喜ばれるものばかりではありません。

 娘が前の学校を、断ち切るようにに辞めてしまったことは、本人にとって、社会から拒絶されたような体験だったと思います。親にも、回避できなかった責任があります。

 人が、「やさしさ」「ただしさ」だと思ってしたことは、ある社会では、肯定されるものではなかった。そうした体験は、人の生きる力を根本から、危うくしてしまいます。そのまま、自信を失いかねない、とても、繊細な時期だったと思いますが、その答えは、新しい社会で、どう評価されるかにかかっていて、親には、どうすることもできません。親は、庇護者ではあるけれど、社会ではないからです。

 無事、新しい社会の中で、自分の役割を見つけ、評価を受けたことで、彼女は、また、元気にあふれた1年を、迎えることができました。

 評価をつけることは、難しい。そして、評価を受ければ、人は一喜一憂してしまうもの。いっそ、要らないのでは?とも思っていました。でも、こんなに、人を支えてくれる評価というものもあるのだと知り、考えを改めました。

 校庭の落ち葉は、すっかり落ちきって、落ち葉掃きは終わりました。新しい1年が始まります。