アップが遅くなりました。12月27日付の毎日新聞の記事です。
潜伏キリシタンとかんころ餅の背景を取材を始めた頃から、わが家は、クリスマスイブに、ミサに参列させてもらうようになり、「この日は、喜びの日であり、平和を祈る日なんだなあ」と 知ることになりました。
ミサでは、 司祭からのお話があるのですが、東日本大震災のボランティアに行った時の話だったり、ご自身の幼少期の部活の話だったり、身近な経験に照らし合わせて、聖書のお話がなされることが多いです。
クリスマスミサでは、その話は、だいたい、世界平和への祈りにつながっています。たとえ信徒でなくても、心に響くところがあり、清廉な気持ちになります。
これは、仏教のお話を聞く時でも、同じように思います。信仰する、ということは、1つの宗教、信条を選ぶことなのかもしれませんが、宗教は、その指針に従って、自らを省みたり、人や社会のことを思いやったりする機会をもらい、人間が集団生活をしていくのを助けてきたのかな、と感じます。
若い頃、キリスト教の「わたしは、罪を犯しました」「お赦しください」という大前提を、どうしても、理解できませんでした。なぜ、最初から、謝らないといけないのだろう、と疑問に思ったものです。
でも、今、ミサに参列させてもらう機会があるようになり、その後に続く「わたしも、人を赦します」の一言に、大きな意味を感じるようになりました。
誰もが、簡単に世の中に発信できる時代。強い言葉で、自分の思う正義をうたい、それを信じる者同士で集まり、それ以外を攻撃する。簡単に対立してしまうことが、増えました。
「わたしは、たびたび、間違いを起こす」と認めて、「人を、赦す」と宣言するのは、さまざまな違った人種、意見、考えと共存する知恵であったのではないかと、思うのです。わたしの勝手な解釈ですが。
この時代、クリスマスの平和の祈りについて、どうしても書きたいと思い、記事にしました。なにか、伝わるところがあればいいなあ、と思うばかりです。
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