We ate breakfast with the radio on. It talked about birds and they said, bird year people could eat messy on table as a joke. |
In a while, she dropped some food from mouth and chopsticks etc. I told her to eat more carefully. I said too much about manner. |
She became silent and started to clean up herself. Did I say too much? Was she going to be blue? |
She opened her mouth and said, "I am not bird year birth, but I dropped much" I like your sense of humor in the conversation, always. |
相手との関係や、共通体験、
一緒に観た映画など、いろんな所から、うまいこと引用してきて、
その場に、ピッタリの事を、さらっと言う。
「オシャレなやつ」
と思う。
こうした、「ちょっとした、機転の効いた会話ができる」
ことを、とても、私は、価値があると思う。
相手が、外国の人であろうと、辺鄙な場所に住んでいようと、関係ない。
この人と話をすると、楽しい、て思ってもらえる。
それって、すごい、大切なことだと思う。
しかし、当たり前だけど、
そんな事は、学校の成績にはならない。
文章にセンスがあるとか、
会話がウィットに富んでるとかは、
数値で表せない。
他にも、いろんな「魅力」「能力」がある。
でも、数値化できないと、評価対象にならない。
結局、数値化しやすい、基準が作りやすいもので、
人を測って、並べるシステムが、今の「教育」のように思う。
そもそも、なんで、教育って、
評価して、点数つけなきゃいけないんだろう?
順番に並べなきゃいけない理由って、何なんだろう?
点数をつけなきゃいけないから、逆に、
評価基準にならない、能力を、軽視している、と感じた。
例えば、ナノカは、活字バカで、
文章を書くのも大好きだったけど、
どんな、意欲的な作文を書いても、字の形だけ、直されて、返されてきた。
内容にコメントがつくことは、ほとんどなかった。
それで、彼女が思った結論は、
「こくごが、にがて」だ。
たぶん、1年生の単元では、字をしっかりと、書くのが、「めあて」。
だから、そこから、はみ出た部分は、評価対象ではない。
こうやって、できる事は、無視されていくのかな。
うちの子のはみ出た部分を評価してください、
というのは、難しいかもしれない。
でも、
うちの子を、なんの基準でも、評価しないでください、
ということなら、可能なのかもしれない。
点数をつけられなくなった今、
彼女は、「私は、これが、にがて」と言わなくなった。
目の前にあることが、 できたか、できなかったか、
わかったか、わからなかったか。
それしか、感想がない。
そうしたニュートラルな状態で、日々、新しい挑戦と出会っていく。
オシャレな会話が、このまま、育っていってくれるといいな。
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