2013年3月8日

Nobody is perfect ノーバディーズ・パーフェクト

Fever, mom and kid. from MMJ 発熱。MMJより
Cherry Blossom season with family. from MMJ 桜の季節。MMJより
子供は、風邪にはじまり、胃腸炎、中耳炎、アレルギーにじんましん、オムツかぶれに、切り傷、やれ、できものだ、腫れ物だ、と年中、病気のオンパレードだ。調子が悪ければ機嫌が悪くなり、さらに悪くなるとぐったりして、母親は心が休まる事はない。今週、私は、ナノカの中耳炎の治療に耳鼻科に通っているが、花粉症の季節だからか、混んでいて、毎回2時間以上待たされる。小さな子供には、この待ち時間(雰囲気も嫌いだ)が苦痛で、ぐずぐず泣き続ける。たった5分、ちゃちゃっと耳を掃除してもらうために、ぐずぐずの相手をしながら、母親もじっと耐え続ける。私は、病院があまり好きではないので、自分の事だったら、毎日通うなんて事はしない。ナノカの耳は、私の耳より大事な問題だ。こんなイヤがっている場所に連れて行くのに、ナノカは私の事を信頼しているようだ。鼓膜切開をされた後も、私に「ぎゅーっ」とつかまって、ニコニコしていた。
実は、私は、ナノカの「ママが好き」という態度を見ると、不思議な気持ちになる。幼少期、自分の母親が厳しかったため、「母親はこわい」というイメージが強く、苦手だった思い出があるからだ。私の中で、「母親は、しつけをするから、子供がこわがる、けむたがる存在」と、どこかで思い込んでしまっている。なので、ナノカを、ぎゅーっと抱きしめて、ナノカが「でれ〜」と、うれしそうにしているのを見ると、「あ、ナノカは私が好きなんだな。私も捨てたもんじゃないな」と、ほっとする。それに勇気づけられ、また、母親をがんばれるのだ。
小さな子供がいる身として、虐待のニュースを見ると、心が痛む。具体的に、小さな体や心が傷つく姿が思い浮かんで、「あってはならない事」だと、涙が止まらない。しかし、同時にそういう事が起こりえる状況も、全く想像できない訳ではない。子育ては、普通に大変で、さまざまな忍耐を、予想外に24時間求めてくる。泣き叫ぶ子供の声に追い詰められたり、自分の限界を感じたり、忙しさの中でパニックになったり、という場面は、誰にしも、度々あるのではないだろうか。私には、子育てに協力的で理解者であるパートナーが側にいて、困ったら相談に乗ってくれる親がおり、食う/寝るには困らない生活に支えられている。それなりに年もとっているから、「これは、この時期だけなんだろうな」「これは成長の過程だから、受け入れてあげなきゃいけないんだ」など、頭で理解して、自分で思いとどまる事ができる。でも、あの時、支えてくれるパートナーが不在だったら?経済的に困窮していて、常に疲労と不安の中で、生活に追われていたら?さらに、若くて、まだまだ自分のしたい事でいっぱいの時に、未熟な母親が同じ状況になったら?起こりえない事ではないと思う。メディアや、どこぞのコメンテーターが、「最近の母親がなってない」からだと責めたてるが、確かに、親が未熟で押さえきれずに、起こるものかもしれないが、そこを暴き立てても、問題解決には意味がない。一番大切なのは、一番弱く、まだ自分で生きられない「こども」という存在を、守ってあげる事なのだから。「責めるだけ」は誰でもできる。難しいのは、どうやって、具体的に、制度を整え、社会が支えるべきなのかで、そこを話し合って欲しい。
Nobody is perfect だれも完璧ではない。母親であるからと言って、すべての人間が、母性にあふれ、常に子供100%に考え、いつも、やさしくいられる訳ではない。子供から目を離す事なく、きちんと家事をこなし、家はちゃんと片付いた状態で、夫の仕事や事情に理解があり、かわいいお弁当を作り、栄養に心配りをしつつ、公共の場では子供に騒がせず、言い聞かせるように躾をし、そして子供は健康で、自主的で、意欲的で、社会性があるように育てて当たり前、とはいかない。そこに、さまざまな事情が入り混じり、子供の個性があり、母親の考えがあり、父親の考えがある。思い通りにならないのは、本人達にとっても葛藤だ。それでも、毎日を紡ぐように、家族は生き、子供は育つ。ちまたで聞く「よい母親/こうすべき子育て」からは、毎日、ずれてるように思うが、ナノカは無事、育っている。 どんなに理想からずれても、少なくても、「あなたを好きだから」だけは、真実。そして、子供は、それをちゃんと受け止めてくれる。子供とは、なんと、やさしくて、おおらかな存在なんだろう、とも思う。

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