2年間、もらってなかった通知表を、今日、久々にもらってくる予定だ。
評価のない教育を2年間受けてきて、通常の公立に戻ってみると、やはり、テストで評価される日々が待っていた。1年生の時、点数に一喜一憂するナノカを見て、疑問に思ったのを思い出した。
ただ、いろいろ経験してみて、テストが「よくないこと」だという考えも、一方通行だとも思うようになった。なぜなら、テストも通知表もない世界では、何がわかっていて、何ができていないのか、非常に曖昧なままだからだ。
ナノカのクラスでは、図工で、ビー玉転がしを制作したが、その最後に、クラスで投票が行われて、順位がつけられた。ナノカは、上下に移動するビー玉の動きがおもしろいと、銀メダルをもらった。入ったばかりの転校生として、票をもらえたこと、評価してもらったことは、とても励みになったようだ。
図工で順位をつけるの?とも思ったけど、昼休みにも、自由に作業をしてよかったらしくて、熱意や工夫がプレゼンされ、人にアピールする、という意味では、現実社会のコンペと同じ状態だとも言える。
みんな、がんばっただろうなと思うと、シビアだなと思ったけれど、表彰の機会が、さまざまな分野で行われるのであれば、モチベーションアップには、つながるのだろう(少なくても、うちの娘は、そう。) 運動会で活躍するかけっこの速い子、漢字テストで一番になる記憶力の高い子、などなど。
一方で、子どもは、人から受けた評価で、自分の得意や不得意を決めてしまうというところもある。本当は、生物が好きなのに、テストで30点とかばかり取って、「理科が、ちょっと苦手だね」と言われ続けているうちに、自分は向いてないと思い込んでしまう。昆虫が3度の飯より好きな子には、ぜひ昆虫学者になって欲しいな、と思うと、評価が枷になることもあるだろうな、と思う。
そうなると、社会から評価があてがわれたとしても、「いや、でも、これがやりたいのです」と、はねのけていくことは、必要となってくる。それが、意外に難しい。
ずっと、なにが正解なのか考えながらの、1学期間。正解は、それぞれが見いだすしかないんだなと納得するしかなかった。きっと、絶対的な正解を求めると、人は失敗するんだろう。どれも、よさがあり、どれも、不備がある。それを、個人に合わせていくには、補う作業が、必ず必要になっていく。
通知表をもらってくる娘を、どうフォローするか、ちょいと覚悟して、待とうと思う。
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