遅くなりました。7月の記事です。
かんころ餅を「送る」気持ちと、「受け取る」気持ちについて、書きました。
今、絵本の原稿を書き始めていますが、改めてまとめようとして思うことは、かんころ餅ひとつ追いかけることで、さまざまな縮図を知ることができる、ということです。わたしが、真剣に追いかけた食べ物は、かんころ餅が初めてなので、他のものにも、同じように背景があるのかもしれませんが、それにしても、かんころ餅は、なんだか、すごいぞ、と思うのです。
歴史や、信仰や、地方の少子化問題など、さまざまな広がりを見せながら、なお、かんころ餅は、「大切な人に食べてもらいたい」「大切な人から、やってきた」個人的な体験でもあります。
長崎の人に尋ねると、「かんころ餅は、もらっていた」「なぜか、家にあった」など、なんとなしに食べてきたと言います。
また、作り手側に聞くと、春になると、とりあえず芋を作らなきゃと、習慣で作ってきた人も多いようです。
その一人一人が、現代社会の矛盾とか、そんなものを感じながら、食べるはずもなく、やはりただ「おいしい」「なつかしい」気持ちで、食べている。 当事者が「これは、文化だ」と思って、食べている訳ではない。
だからこそ、こうして、淡々と、その価値を綴る人が必要なのでしょう。 それが日常であるうちに、日常の風景の中で、生きる姿を。
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