自然素材を、ホームセンターで物色 searching for some natural materials for workshop |
麻袋を解体して、縫製してみる。なかなか、楽しい!waving the linen |
浜辺を選んだ理由は、砂なら、無尽蔵にあるし、
扱いに、特別な技術もいらないから、
子供でも、巨大な立体を作ったり、
自由自在に動けると思ったからだ。
私が通ったアイルランドの美術大学に、
彫刻家(スカラプター)の講師がいた。
彼女が作っていたのは、巨大な、ゼンマイだった。
ゼンマイは、シダ科の植物で、螺旋形をしている。
その形の美しさに惹かれ、螺旋、というものの持つ、「永遠性」みたいな
ものを、巨大なオブジェにすることで、追いかけていた(のだと理解した)。
彫刻、というと、図書館前とか、公園にある銅像のようなものを、思いがちだが、
世界の流れとしては、布、プラスチック、ビニールや新素材を使ったものや、
音や、LEDや、センサーを使った、近未来的なもの、
島に布をかぶせてみたり、あるいは、何かを行って、その反応をビデオで捉えたものなど
「これ、何?」というもののことも含め、さまざまなアートのことを言う。
こうしたアートは、哲学的だったり、社会問題を婉曲的に表してたり、
「コンセプト」がすべてなので、解釈が難しそうに見える。
たまに、「アートは難しい」という言葉を聞くが、
そういう現場で作られてるのだから、そうかもなあ、と思う。
先生の大きなゼンマイを見た時、
「ただ、ゼンマイ、でかくしただけじゃん」と思った。
でも、大きなゼンマイは、圧倒的なインパクトがあり、
不思議な美しさがあった。 ボーッと長く、見ていられた。
「これが、何なのか」ではなく、私が何を感じるか、なのだと思った。
他のアートだって、どれほどの意味や価値があるかは、
受け取る側の心に、どれだけ、響くか、で決まるのだ。
子供が、新しい分野のアートに触れる機会は、少ない。
また、大人は、子供の造形指導で、どうしても、「素敵な出来上がり」を
目指してしまいがちである。
本来、子供は、言葉を介さず、直接、アートに対面するので、
「なんか、感じた!」と、すんなり受け入れられるのに、
さまざまな価値感や、アートの本質を経験することがないと、
いつしか、心で感じられる時期を過ぎてしまい、
ある日、そうしたアートと出会っても、「わからない」から、苦手、と感じる。
この環境アートは、「いつか、消えてしまうもの」。
風に吹かれて、雨にさらされ、また、地球に消えていく。
残るのは、「経験」と「記憶」だけ。
その気楽さも手伝って、「なにか、いいものを、つくらなねば」と考えず、
「ふんふんふん〜」と、潮風にのって、 鼻歌でも歌いながら、
心のどこかに、「アートを、ただ、感じた」を、持って帰ってもらえたらな、と思う。
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