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かわいい人形たちと After the puppet
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バレエのおさらい会の前に、子ども劇場で、人形劇を観た。そのあとで、友人と、子どもを取りまくコミュニティ環境について、話題になった。
わたしと、友人は、昭和の後期に子ども時代を、地方で送っている。その頃、地域コミュニティは、かろうじて存在していて、近所のおばちゃんに叱られたり、親切にしてもらったり、まあ理不尽なことに、みんなで怒ったり、地元のお祭りがあって、大人たちが協力して、地元を盛り上げていたり、と地域の中で育ってきた感覚が残っている。
でも、その後、コミュニティが次々と消えて行き、人は、もっと個人的に生活をするようになった。お祭り的な楽しみが欲しければ、ネズミランドに行けばいいし、劇が観たければ、自分が旅をして、お金を出して、良質なものを観に行けばいい。集まりたかったら、自分の気の合う仲間だけで、集まればいい。そうやって、一見、自由で、シンプルな世の中ができあがっていった。
今の、子育てしている親御さんは、地域コミュニティがなくなった世界で、育った世代。もちろん、がっつりコミュニティの残る下町エリアで育った人もいるし、親御さんの方針で、さまざまな活動を目の当たりにして育った人もいるので、ここは、個人差だが。
社会感覚がないので、なにか問題が起きた時、その問題が起きた「社会」を変えなきゃ、という意識に向かない。「あの人、かわいそうね」と、対岸の火事になる。自分の身に降りかかるまで、声を上げる人がいない。悪気はない。当事者になるまで、問題は、社会の中で、黙殺し続けられていく。
でも、社会は、当事者には、変えられない。第3者が動かないと、当事者は、孤軍奮闘で、やがて、泳ぎ疲れて、去っていくのである。 社会が、「変わらない」という閉塞感があるのは、このせいだ。
先日、読んだ本の著者は、親は子を、「世界の平和の実現のために」育てるべきだ、と言っていて、それは、「頭の良い子を育てる」「これからの時代を生き抜くための頭脳を育てる」みたいな話が多い中で、そこが基本だよね、と共感した。
わたしは、ナノカのいろいろな能力は、社会を公正に見て、民主主義とは何かを自分の頭で考え、違う考えの人と議論を交わし、よりよい結論を模索していくために、使って欲しいと思っている。
社会感覚は、社会人になったからって、突然、降ってわいたように、出てくるわけじゃない。小さな頃から、信じられるコミュニティの中で、社会の成り立ちを味わい、世界の未来に希望を育てていって、初めて、発動されるものだ。
頭がよい人材は、これからも、どんどん出てくるだろう。能力のある子も、世渡り上手な子も育つだろう。でも、物事の本質は、いったい、なんなのか。なにを、実現するために、その能力が必要なのか。ちょっと、忘れちゃってはいないだろうか。
おとなの社会が、次世代に身につけて、社会に出て行って欲しい感覚を、議論できてない。本当は、そこが、まったなしな気がする。