2020年11月11日

われら、競争社会の申し子 We had been competing

https://youtu.be/unrayyhrVIU

ここ数ヶ月、ナノカは、アルカス佐世保の演劇サークルに所属して、いろいろな経験をしている。

舞台はいいなあ、と思う。それぞれが、それぞれの持ち場を演じないと、成立しない。

ナノカは、バレエのレッスンと重なったり、学校の授業日と重なったりで、出られない日もあって、ただでさえ覚えが悪いので、ついていくのに苦労していたが、ようやく、思い切って、体をいっぱい使って、歌って、踊れるようになった。周りの熱に押されて、自分の役割を感じているようだ。

指導してくれている演出家の宮原清美さんが、「舞台は、協力しないとできない」となにげなく、言っていたが、当たり前に聞こえるこの言葉を、一緒に作り上げている中だと、実感する。

役者は、それぞれが、輝こうとして、鍛錬して、ダンスを習ったり、歌を練習したり、ダイエットしたり、体を鍛えたりするわけだけど、でも、どれほど自分を磨いても、ひとたび、舞台という場所に連れてこられたら、今度は、自分の役割を全うする。そこに上がれば、競争ではなく、協力だ。

ナノカは、そのことを、よく知っていると思った。バレエも、ピアノも、三味線も、舞台も、より上手になりたい、あれができるようになりたい、という気持ちで通い続けているけれど、だからと言って、競ってる気持ちは全くなさそうだ。それは、幸せなことなのかもしれないなあ、と思う。

最近、誰かがシェアしたテレビ番組で、フィンランドの校長先生が日本のマラソン大会に対して、語っていたのを見て、いかに日本が「競争」から、結果を生み出そうとしてきたかを、実感した。

そのテレビ番組では、日本のマラソン大会で順位をつけることに、フィンランドの校長先生が、疑問を呈していた。「走ることの、楽しさを知るのが、学校のスポーツの目的ではないですか?」と 。ほとんどの人間にとっては、走ることの目的は、オリンピック選手になることではなく、体を動かす心地よさを知り、生涯にわたってスポーツに親しむこと。なぜ、すべての児童に1からビリまでを順位づけをして、悲しい辛い思いをさせなきゃいけないのだろうと。

頂点の何人かを排出するために、裾野を拡げて、巨大なヒエラルキーのように競争させる。たった数人のオリンピック選手を出すために、毎年、マラソン大会をする。世界に競争力のある優秀な人材を作るために、学力統一テストで、すべての人間の順位づけをする。

私たち世代は、そのシステムで育てられた、競争ベースの人間なのだと、しみじみ思う。今の子育て世代、子どもを「「負けない子に」という意識から、意外に抜けられない。

たかだが幼稚園、小学校の子どもにとっては、本来は、勝ちも負けも、それほど重要じゃない。知らない間に、小さな頃から、システムに、踊らされているのだ。本当の生き方は、じゅうぶんに、子ども時代を楽しんで、いろんな経験をして、その中で、自分の気持ちで決めればよいのに。

社会も、舞台のようなもの。それぞれが、それぞれの輝きたいと思う努力をして、そして、自分の持ち場で、自分の働きをする。

だれが、だれより優れていて、だれが劣っているかなんて、順位をつけて、意味があるだろうか?目立たない役割もいなくては、舞台は成り立たない。社会も成り立たない。

勝ち負けが、人を強くして、結果を生み出す、と信じてる人もいるだろう。でも、多くの不幸と、息苦しさと、不毛な神経のすり減らしを生み出していることも事実だ。

わたし自身、わたしの中にある、競争そだちの感覚を、がんばってないと脱げない。ありのままの君でいいよは、意外に、難しい言葉なのだ。

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