いじめ、について、しばらく考えている。
いじめやからかいのような事件が学内で起こった時、当人は、人生観が変わるほどの経験をしているが、クラスメートも、学校も、教師ですら、それを、日常の出来事の一つとしてしか受け止めてないことが多い。
本人は、1ヶ月後も、1年後も、下手をしたら、一生、覚えている。温度差だ。
「そうやって、強くなっていくのかな」と思ってきたが、それは、「いじめ」について、学校も、社会も、あまりに勉強不足で、その場しのぎの対応で処理してきたことの、言い訳に過ぎないのかな、と思った。
日本の教育では、いじめを、まるく収めて、終わりにするケースが多い。いじめた人間も、自分のどの行動が悪かったのか、相手を傷つけたのか見つめ直すこともなく、指摘された行為だけを謝って、なんとなく終わる。でも、なんで、そこに至ったのか、「だって、あいつが、そもそも腹が立つ」みたいな感情を心の中で消化できてないので、いじめは続く。あるいは、水面下に潜る。大事にならない限り、くすぶり続ける。
しかし、フィンランドの教育では、小学校に上がるに当たって、親に「いじめとはなにか」との講演会があるし、子どもに対しても「こういう行為が、相手を傷つける、いじめです」というケーススタディを教えている。実際に、実例を挙げて、それぞれの立場のきもちを話し合い、集団生活で起こりうる「いじめ」について、みんなで考える。学術的に研究されて、いじめが起こる集団心理とか、児童心理とか、発達心理とかを、きちんと受け止める。そして、程度が過ぎた場合には、毅然と犯罪として処理される。なぜなら、すべての子どもが、平等に、安全で安心な教育を受ける「権利」を持っているからだ。
成長過程の未熟な人間の過ちを、つるし上げる必要はない。日本でも、事実を整理する必要があるかと思う。なにか問題が起こった時、向き合っていないのは、子どもではなく、教育そのものなのかな、と思った。
ネガティブな感情は、誰だってある。
自分よりできる子が、うらやましくなる時もあるだろう。
ノロマの子に迷惑をかけられ、イライラすることもあるだろう。
家庭や人間関係で思い通りにならないことを抱えて、あたってしまうこともあるだろう。
人間は聖人君子ではない。そして、それを目指す必要もない。イヤな感情が湧いてくることもあるし、振り払うことができなくて、辛いことなんて、大人だって、ある。
大切なのは、ネガティブな感情をなくすことではなく、それと向き合い、コントロールを覚えることじゃないだろうか。
子どもは、いい子でないといけないのだろうか?人間は、常にやさしくないといけないのだろうか?邪な考えや、嫉妬や、身を守りたいという気持ちは、あっちゃいけないのだろうか?
大人が、ネガティブな感情がないかと言えば、やはり、ある。しかし、客観的に自分を見て、「イライラしてるなあ。ケーキでも食べて、忘れよう」とか、「ヤダヤダ、これは、嫉妬だわ。他に目を向けよう。」とか、関係のない旦那に夜グチって、スッキリしようとか、感情と行動の間にクッションを置くコントロールをしている。それができないまま大人になると、大人の社会でも、差別やいじめが起こる。なににせよ、私たちは、体系的に、それを受け止めてない。
「子どもは、みんな、基本的には、いい子なんだ」と言った人があったが、わたしも、それに同意する。それぞれに、それぞれのよさがある。だが、「子どもは、いい子だ」を、 押し付けて、彼らのモヤモヤした、さまざまな感情を、受け止めなくていいわけではない。
文学も、演劇も、芸術も、そういうネガティブな感情を、あるがままに受け入れ、社会の不条理を描き、そこで生きる人間の生き様を客観的に映し出す。そうしたものを通して、子どもも、自分の中にある感情、相手の中にある感情を受け入れ、成熟を目指す。
ナノカは、先日ライオンキングのミュージカルを観に行ったが、そこで3回ほど泣いたらしい。そのうちのひとつが、スカー(ライオンの王をだます、悪役)が、孤独を憂う場面であった。悪役のネガティブな感情の裏にひそむ、複雑な気持ちに共感することができたのも、彼女自身が、さまざまな気持ちを受け止めているからだろう。
いじめや子どもの犯罪の後ろには、もちろん家庭事情もあると思う。でも、同時に、子どもの心理に向き合いきれていない教育制度もあると思う。仕方ないからと諦めている節があるけれど、人はさまざまな問題を抱えていても、自分の感情との向き合い方、社会との距離の取り方を、それぞれが、学んでいかなきゃいけない。とても難しい課題なのだと思いながらも、日本の教育に、一歩前に進んでもらえたらと、願ってやまない。
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