2020年11月26日

身の程を知る Know how big

 

ナノカのやっていた塗り絵が、きれいだった

 ナノカが、図書館で「ガラスの仮面」を借りて、ハマっている。

ナノカも演劇が好きだし、「女優さんになりたい、て思う?」と聞いてみた。すると、「別に」とそっけない答えが返ってきた。

「なんで?劇も楽しそうにやってるのに」と聞くと、「やるのは、楽しい」と言った後に、「ナノカは、習い事程度でいい」と言った。

あまりに、あっさりしていて、こっちが逆に、考えてしまった。

ナノカが真剣にハマってやっていると、一生懸命応援したくなり、親の方がどこかで、何かを掴んで欲しいと、期待しちゃってるんだと反省した。

ナノカは、わりとなんでも「やりたい!」と言い、そして、自分で言いだした以上、それなりに熱心に取り組む。真面目なので、上達することもある。それを、喜びと感じている様子も見て取れる。

転校を機に、1度辞めてしまったピアノも、10ヶ月ほどのブランクののち、2週間に1度のペースで通い始めた。今度は、自分で「この曲が弾きたい」「もっとうまくなりたい」と言い、短時間ではあるが、練習も毎日している。先生との相性もよいようで、歌いながら弾いたり、音階やリズムの仕組みを考えたり、音楽と自分の関係を、客観的に見ながら、付き合うようになったように見える。

一生懸命、なにかを毎日やってみる、ということは、自分の実力と向き合うことでもある。

 それは、時に、辛いことだ。一歩、踏み入れてみると、ものすごい上の世界がある事に気づく。自分の至らなさを実感しながら、その道を歩んでいくことになる。

でも、そこで立ち止まったり、目をつぶってしまったら、その世界との接点を失ってしまう。好きであり続けるためには、自分の姿を知りながら、自分なりの課題を見つけて、前に進んでいくことを、楽しまないといけない。

ナノカがもう少し幼かった頃は、人と比べて「できないから」と、拗ねたり、諦めたりすることがあった。 でも、いつからだろう、そういう事を言わなくなった。今は、「できるようになった」「むずかしかった」「これは、わりと得意」と、淡々と報告をするのみだ。

長く、同じ習い事をして、よかったと思った。真剣に何かに取り組み続けると、必ず、壁にぶち当たる。その中で、自分が完璧な王者じゃないことを知る。子どもに、可能性は無限大だというけれど、なにもしないから、可能性がゼロであることを証明できない、という意味では、結局どこにも行き着けない。限りなく、遠い道のりも、今の一歩からと歩き続けられる人間だけに、可能性が残されているのだ。そのシビアさを、子どもながらに気づかされるのが、習い事だ。

行き先が一個だと決めつけて、親がごちゃごちゃ口出すのは、本当にお門違いだ。 彼らは、日々、自分の大きさを実感しながら、一歩を重ねている。そこには、確実に成長があるし、そこから、いろいろな広がりもあるだろう。外部のさまざまな期待は、邪魔でしかない。

身の程を知る、と言ったら、ネガティブに聞こえるかもしれないけど、年齢も上がってきて、そうやって自分の器や人生と向き合う時期が来たのだなと思う。そして、身の程を知った上で、努力し続けることができたら、それは最強なのだろう。

わたしが、舞台に生きていない人間だから、「マヤちゃんみたいに、女優になっちゃう?」なんて、アホなことが言えたんだ。

ナノカは、ガラスの仮面について、ちょっと古くて、理解できない感覚も多いらしく、「出前のラーメンが、のびちゃう?」と、首を傾げてた。そういえば、マヤちゃん、何歳なんだっけ?児童虐待?高校生なら、アルバイトで、今もあり得る状況か。まあ、その古さも、「わたしも、マヤちゃんみたいになる!」につながらなかった理由なのかもしれないけど。

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