2020年11月5日

カンコロの島紀行37 Goto Article

 


4年目に入った、カンコロの島紀行。今回は、移築された教会について、書いた。

 最近、「積み重ねていく」ことの重さを実感するようになった。それは、身近な例で言うと、子育てもそうだし、物のあつかいや、人づきあい、習い事などに始まり、伝統の継承、職人技術の習得など、重ねないと出ない「厚み」に、惹かれる。

 大木に出会うと、圧倒される。年輪は、毎年、数ミリずつ、重ねてきたもの。幹の太さは、「時」を目に見える形にしたものだ。

 古い建物に出会うと、そこが人と紡いできた「時」を感じる。

 呼子の教会も、馬渡島の教会も、最初、違う場所で、その土地の人の熱い思いで建てられ、そして、発展をしていく時に、「移築」という形で、今の土地に譲られてきた。譲られてから、100年。カトリックの人は、毎朝、教会でお祈りする人も多い。たぶん、100年の間、1日たりとも空になることなく、訪れる人があり、大切に掃除され、花が飾られてきた。

 そこには、不思議な明るさがある。空気までが、透き通って感じられ、光に満ちている。わたしは、カトリック信者ではないので、たぶん、神の存在を感じているのではない。これは、人が積み重ねてきた「時」の荘厳さを感じてるのだと思った。

 それは、高千穂で神楽を見た時にも思った。ここは、明るいと。清潔に、日々を重ねて、何百年と守られているものは、よどみなく、光に満ちている。

 わたし達は、使い捨てることに慣れてしまった。どんどん新しい商品が出てくるし、修理して使うより、新商品の方が割安になることも多い。

 しかし、何かを買って、何かをゴミに出すたびに、なにか大きなものを失う気がする。わたしも度々、100均にも行くし、セール品でものも買う。しかし、「古いものより、安かった」「また壊れるから、これでいいや」の商品には、あの清潔な明るさはない。

 野崎島を離れる時、人は、家をばらして、新しい土地に運んだり、人に売ったりしたと聞いた。それは、当時の習慣だったからだが、 その文化自体が、ものを使えるだけ使い倒し、循環させ、物にも、建物にも、「時」を刻ませてきたのだ。

 小さな頃から、開発される山や土地を見るのが、好きじゃなかった。山をなぎ倒し、新しい住宅地や、産業地に変えていく。そこには、「今、快適なら、いいじゃん」が「今、儲かればいいじゃん」と結びついて、前のことも、後のことも、考えずに、使い捨てていく。それは、時を重ねて行く気もない。空気がよどんでいるように感じ、目を背けたくなる。 

 使い捨て文化を可能にしてくれた、安価で便利なプラスチック。どの海辺に行っても、どこかで目にしないといけない。あれも、すべての風景を台無しにする、よどみだと感じる。

 開発と名のつくもの、新しいもの、全部を、否定してるわけではない。ただ、それは、必要なのか、考えていく時代に入ったのではないかな、と思う。世界から、すっきりと清潔に明るい場所が、消えつつある。

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