自由に使える時間があったら、こんな活動もできる。 |
先日、文部科学省が、言及した。
続いて、宿題の多さについても、議論が交わされてるようだ。
意外に、
「社会人になってから、必要とされる書類を期限内に出すための訓練」
だから必要だと、訴えている人が多く、
「甘やかしたら、子どもが弱くなる」
と言う意見も、結構、見かける。
私は、宿題は、目的がないなら、必要ないな、と思ってたけど、
学習習慣のために必要だ、という意見が、多かった。
宿題の効果とか、害を、議論するのは、
日本の社会のあり方も考えると、複雑そうだ。
私自身、宿題を、ちょくちょく、サボった子どもだった。
他に、やりたいことがいっぱいあって、ついつい、忘れちゃうのだ。
毎日、野山で植物や虫と遊んで、部屋の中で、没頭して、作り物をしていた。
大人になっても、日本の組織社会内で働いているわけではない。
社会への訓練だと言われると、
「みんなも、いらないよ。辞めようぜ」
とは、言いにくい。
でも、時間は、子どもといえども、無限ではない。
遊びの時間、お手伝いの時間、ぼーっとする時間、おしゃべりの時間を
宿題が子どもから奪ってしまってるのも、事実だ。
大学生の頃、LD(学習障害)の子の家庭教師をしていた。
とても、かわいらしく、明るい女の子で、
話していても、何も、違和感を感じなかったが、
プリントに向かうと、一気に、どんよりした。
目から得た情報が、脳で電気信号に変えるのに、不都合があるようで、
漢字のへんとつくりが、左右逆転し、ひとつの文字を書くのに、何十分もかかることがあった。
毎日、国語と算数のプリントが1枚ずつあったとして、
それを家庭教師が横について、2時間かけても、
終わらないこともしばしば。日によっては、9時過ぎまで、泣きながら、
宿題をこなしていた。小学校3−4年生だった。
学校の先生としては、多くの課題をさせることで、
できていない部分をカバーする、という意図だったのかもしれない。
追加のプリントが出ることさえあった。
でも、その生活は、過酷で、気の毒だった。
「特別クラスに行けばいいのに」と思う人がいるかもしれない。
でも、彼女は、日常生活では、障害を感じさせることはなく、
すべて自立していた。幼稚園から、ずっと一緒だった友人から、
学習面の理由だけで、離れてしまうのは、どうなのだろう?
(今は、特別クラスと普通クラスの接続が、もう少しよくなり、
サポートが受けながら、行き来ができるのかな)
あの子の、プリントを前にした、涙を忘れられない。
教室で、何を求められていたのか。
ある枠に入る人間だけを、評価して、そこから、はみ出てはいけない。
そこから、はみ出ないよう、矯正しなくちゃいけない。
そんな風に、言われている気がした。
彼女も、合った職業があり、社会人として活躍できると感じた。
でも、学校という学歴社会の中で、「普通クラス」からはみ出ると、
枠外に出てしまい、生きづらくなる。
何かが、不条理に感じたけど、
その不条理の相手は、巨大な日本社会だと気づいて、
「どうしようもないな」と思ったのを、覚えている。
授業についていけない場合だけじゃなく、
より高度な関心を持つ子供にも、同じことが起きてるんだと思う。
学校の運営上、授業で個々に対応するのは難しいだろうけど、
宿題は、「できたら、やる」「やりたかったら、チャレンジ」
「自分のレベルに合わせて、ドリルを選ぼう」
なんかが、あってもいいのでは、と思った。
健康で、幸せな、放課後を、子どもたち、みんなに過ごさせてあげたい。
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