小学4年生は、勉強することがいっぱい。1、2週間ごとに、国語も算数も新しい単元に入れ替わる。どんどん異なった概念が出てきて、手ごわい。こうした勉強を親が教えようと思ったら大変なので、学校で教わってきてくれて助かる。子どもの成長を見ていると、わたしも、大方の基本を小学校で身につけてもらったんだな、と実感する。
現在ナノカが、学校で好きな課題は、「パンフレットを作る」「本のポップを作る」「プレゼン資料を作る」などの、文章を組み立てる作業だ。楽しそうに、パソコンで調べたり、本から抜粋したりしている。
先日、「彼杵川の歴史を調べたい」と言われた時は、ネット上でそうした記述を見つけられなかったので、二人で学校帰りに、図書館に行った。彼杵町図書館には、川についてまとめられた資料はなく、「水と緑と土と」という漬物石級の重さの郷土資料から、彼杵川の記述を二人で探して、抜粋することにした。なかなか、大変な作業だったけれど、「ものすごく、楽しかった」らしい。
ネットの世界は、網羅している分野に、限り・偏りがある。学校では、タブレットでの検索の仕方を覚えてもらうために、ネットを利用することが多いようだが、それだけでは、一般知識以上のものは得られない。いつか、きちんとした文章を書くようになった時には、本や資料室などで、専門的な知識に踏み込む必要が出てくる。
学校に、学習のほとんどはお任せしているけれど、もし、小学生のプラスアルファを手伝ってあげられるとしたら、そういう「導入」であろうか(図書館に、そういう手ほどきがしてもらえたら、よいなあ)
そういえば、ホモサピエンスがネアンデルタール人を追いやって、生き延びたのは、喉の位置が違うため、明瞭な発音ができて、言葉による意思疎通ができたからだと聞いたことがある。言葉は、脳内にある情報を人とやり取りしようという、努力の賜物なのだと思った。
言葉は人によって捉え方に差があるため、内容が複雑になると、間違いなく伝わるようにと、さらに神経を遣う。正確に自分を伝える言葉を模索し、その中から、思想や物語の傑作が生まれていった。ちょっと発音が良かっただけのホモサピエンスが、ここまで発展していったと思うと、すごい!
でも、そうして努力の末に紡ぎあげられた言葉が、受け止められるとは限らない。言葉足らずなケースだけではなく、相手が受け入れたくなかった場合にも、届かないで終わることがある。
言葉は、人と人の間に横たわる、あいまいな事実や考えを、明確にしてくれるが、かえってそのことで、反発を食らったり、炎上したりすることがある。相手がハッピーになるような内容のみを綴れば、反感を避けることはできるのだが、それだけでは、言葉は、役割を果たせない。文章を書いた人間が間違ってるのではなく、現実が受け入れがたいのだが、発信者がうらまれる。文章を仕事にするということは、そういう事と隣り合わせだ。
ナノカが、「いつか、文章を書く仕事もしてみたい」と言い出した。なにか、お手伝いをできないかと思って、日記帳をプレゼントした。ナノカの日記は、人に読み上げて聞かせられるほど、外向けの文章だ。子どもの言葉は、簡潔で、さわやかで、そして、本質を突いてくる。
これが、社会への疑問となった時、まっすぐな言葉を、大人は受け止める覚悟があるんだろうか?一抹の不安を感じながらも、その気持ちを大切に育ててやりたいとも思う。
美しい文章をつづった、世界中の先人たちに習い、その末席で、母も子も、言葉を紡ぐ。言葉が、きっと、人をつなげてくれものだと信じて。
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