今日から、新学期です。元気に、登校していきました。
学校が始まるまで、毎朝、一緒に散歩していました。
氏神様にも初詣に行き、冷たい空気の中、水鳥を見たり、焼きたてパンを買いに行ったり、ゆとりある日常を、楽しみました。散歩が終わると、花を摘んだり、友達と秘密基地を作ったり、日常の細々を、愛するように、幸せそうに、生活していました。
さて、公立の小学校に戻って、2学期間が終わりました。転校当初は、宿題に追われること、評価を常に意識しなくてはいけないことなど、いろいろ、心配していました。真面目な性分なので、「ねばならない」に、がんじがらめになるのではないかと思ったのです。
そんな中、2学期の通知表を読んで、 じーんときました。
そこには、毎朝、ボランティアで落ち葉掃きをしていたことが書かれていました。ナノカから聞いていたので、落ち葉掃きをしていることは知ってたのですが、それを先生が、「創意工夫をし」「時に、仲間に指示を出し」と、とても細かく、見てくれていたからです。
なぜ、落ち葉掃きをするか、ナノカに前に聞いたことがあります。「気持ちいいんだよ」「無になれるから」と答えていました。見返りを求めず、自分の気持ちだけで完結してることに、尊いなあ、と思ったのを覚えています。だから、評価されなくても、まったく、気にしなかったと思います。
ただ、彼女の落ち葉掃きの様子を見ていてもらえたことを知って、深い安堵感を覚えました。彼女が持つ、さまざまな特性を肯定してもらった気持ちになったからです。
人の特性は、ある面では、長所にもなるし、短所にもなる。親から見れば、よいところに見えても、所属する社会から喜ばれるものばかりではありません。
娘が前の学校を、断ち切るようにに辞めてしまったことは、本人にとって、社会から拒絶されたような体験だったと思います。親にも、回避できなかった責任があります。
人が、「やさしさ」「ただしさ」だと思ってしたことは、ある社会では、肯定されるものではなかった。そうした体験は、人の生きる力を根本から、危うくしてしまいます。そのまま、自信を失いかねない、とても、繊細な時期だったと思いますが、その答えは、新しい社会で、どう評価されるかにかかっていて、親には、どうすることもできません。親は、庇護者ではあるけれど、社会ではないからです。
無事、新しい社会の中で、自分の役割を見つけ、評価を受けたことで、彼女は、また、元気にあふれた1年を、迎えることができました。
評価をつけることは、難しい。そして、評価を受ければ、人は一喜一憂してしまうもの。いっそ、要らないのでは?とも思っていました。でも、こんなに、人を支えてくれる評価というものもあるのだと知り、考えを改めました。
校庭の落ち葉は、すっかり落ちきって、落ち葉掃きは終わりました。新しい1年が始まります。
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