2009年7月15日

cultural? personal? 文化のちがい?それとも、個人?

ニューヨークにいた時、たまに、「日本人」のレッテルにうんざりする事があった。普段は、まったく個人的なつきあいなのに、「あなたは日本人なのにおしゃべりだ」とか「あなたは日本人だから、男性に尽くすんでしょ」とか。ひどいのになると、記事で見たデータとかで、「日本人女性の未婚率は上がってるから、あなたは結婚しないんでしょ」とか、古い小説(谷崎潤一郎/痴人の愛)で読んだ日本人女性像から、「日本人女性って、浮気するんでしょ」とか。ああ、腹立たしい。
日本にいても、多少の違和感を感じる事だってあるし、どう考えても標準に近いとはいえない。というか、いったい「典型的な日本人」な人っているの?

日本人である事を「期待」される事はあったし、勝手に私の行動のひとつを、「日本人だから」と解釈される事があった。「私は日本代表ではない。にしむらかえ、よ」と憤ってケンカした事もある。が、言われてみれば、日本でどっぷり育ったのだし、日本人である事は、確実に染み付いてる。どこからが私で、どこからが日本人の特徴なのか、私も説明ができなかった、、日本文化はふかい所で「私」を作っていて、意識する事もない。無常観とか、死生観とか、どこから手に入れたものかと言えば、やっぱり、日本文化なのかな、と思う。あやふやな暗い井戸の中で、私自身と、私が生まれてから摂取し続けた日本文化が、混沌と混ざっている。分ける事なんてできない。

モノを書く時も、意識せずに体に染み付いた日本文化を使ってしまい、向こうでは全然通じないという事もあった。自然と、「これは、通じるだろうか?」と常に用心しながら書いていたと思う。
今、日本にいて、日本人のレッテルは外れる。私の中の日本文化は、受け手も日本人なのでさらっと理解される。確実に通じる感覚は増えた。私はどっぷり日本人だったのだ。しかし、今度は逆に、「個性的」と言われるようになった。私が「私」である部分が、目立つようになったのだろうか?自分と文化を分けるなんて、無茶で意味のない事なのだけど、そんな経験があるからか、どこからが自分なのかなあ、とたまに、思ったりする。

3 件のコメント:

yuko さんのコメント...

初めまして。こんにちは。私もイタリアに住んでいて8年になりますが、私もこの“あなたは日本人だから〜”というの気になることあります。自分の事を客観的に見られていないというか。。
海外に住んでるとステレオタイプな日本人像ができあがっていて、それを個人と接するときにも当てはめるから無理が生じるというか。。。自分も一体はたして、どこまで“日本人”の考え方が影響しているかは分からないけれど、その国の教育を受けて文化や道徳を吸収したならばやっぱり何かしらの考え方が自分の考え方や行動に影響しているだろうし。。。それを比較したらきりがないし。。でもでもこの事を考え始めると渦の中に巻きこまれて出て来れなくなってしまうので、なるべく、考えないようにしています。全部をひっくるめて自分を形成しているのかな。。。と。^_^

にしむらかえ Kae Nishimura さんのコメント...
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にしむらかえ Kae Nishimura さんのコメント...

yukoさん、こんにちは

ふーむ。やっぱり、どこでも、だれにでも、この経験はあるみたいですねえ。特に、個人的なつながりができた後に言われると、がっくり来ませんか?
確かに、いろんなものが混ざってできたものが「私」なので、どっからどこまでが文化で、どこからどこまでがこれ、と線を引く事は無理ですよね。
海外で言われて感じる違和感は、たくさんいる「日本人」のすべてを一緒にされて、自分にも当てはめられたような、「いっしょくた」感がイヤなのかも。
自分の事も、他人の事も、きちんと、個人としてみていけたらな、と思いますね、こう考えると。