2021年9月30日

かんころ紀行9月号 Goto Article

 


連載9月号。

今回は、ふささんとのなにげないお喋りの中で、印象的だったことを書いた。

 コロナ禍の分断は、つよく、感じる。

 でもきっと、今までも、それぞれが、なにを思っているのか、互いに話をする機会がなかっただけなのだろう。必要に迫られた時に、その拙さが、ギスギスとぶつかってしまう。

 同じ思想の人と、「だよねー」と言って、自分たちの正当性を高めあって、合わない思想を「違う」とハナから、否定する。 それでは、きっと何も生み出せず、自分も成長できないのだろうな、と思う。難しいけれど、話し合うことは、大切なんだと思う。

 とはいえ、次回、 新興宗教の3人組が来た時、しっかりと対話するかといえば、きっと、できないだろう。わたしは、未熟者だ。

 小さな笑い話のように見えて、人間としての格の違いを見せつけられたような、そんなエピソードである。

2021年9月28日

ステージマミイのひとりごと Momager

 

なのかの舞台が、無事、終わった。

 前日からは、 駅前のホテルに親子で泊まり、夜のお稽古後に、バタンキューと眠れるようにした。とにかく、体調を崩さず、役目を果たせるように、サポートする。子役ママ気分。

 わたし自身も、仕事をホテルからチェックして、舞台の方では裏方を少しお手伝い。ボロボロのボサボサな1週間だった。

 当日は、ナノカは食事も入らないほど、緊張して、、、でも、みんなで作り上げる舞台は、それぞれが、それぞれの役をやり切らないと、成り立たない。子どもであっても、与えられた役割は、自分で克服して、やり切る責任がある。舞台裏では、多少、グズグズ言ってても、結局、自分自身で気持ちを切り替えて、舞台に飛び出していくしかない。このシビアさの中で、人は成長するんだな、と思った。

 舞台の上では、ナノカの真面目さが、透明感になって、きれいに見えた。それぞれの個性が活かされて、本当に、自然だった。かっこよかった。

 1年半も関わってきた舞台作り。舞台が終わって翌日には、ナノカは、「さびしい、、、」と早くもロスになっている。

「演劇の、なにが、一番、いいの?」と聞いてみた。

 「できなかったことにチャレンジして、できるようになること」「達成感かな」というお答え。なんか、大人やね、、、

 さらに、「なにが、さびしくなるの?なにが、一番楽しかったの?」と聞くと、「みんなで、ワイワイとお稽古するのが、一番、楽しかった。ずっと、一緒だったから、さびしい」と答えた。

 2年生の終わりに応募して、コロナ禍の中で、計画変更を繰り返しながらの1年半。途中、体調不良に転校、舞台降板を経験しながらも、還る場所があったから、もう1度輝こうとがんばれた。

 輝くことでしか、答えが出ないことがある。学校では、子どもが抱えるには、理不尽な事件を経験し、大人が、社会が答えを出せなかった半年間。自分で答えを掴むため、舞台に立ち、輝こうとした。

 ナノカだけじゃなくて、他のすべての出演者もそれぞれ、大人は大人の、子どもは子どもの、人生の事情を抱えて、集まり、それを背負って、舞台に立ったのだろう。

 また、日常が始まった。日々の暮らしの中では、それぞれが、悩んで、もがいて、生きていくしかない。でも、本当は、輝いているんだということ。あの日、あの時輝いたことをを知っているから、見えないかもしれないけれど、君の心の中には、星がまたたいている。胸を張って、今日もがんばろう。

2021年9月22日

アルカス演劇さーくる「わが町佐世保の物語」 Nanoka's acting

 

抗原検査を行いながら、活動継続中

9月25、26日の公演が迫ってきた。

アルカス演劇さーくるみんなでつくる「佐世保の物語」プロジェクト

学生は学校帰りに、大人は仕事帰りに、連休も終日、稽古、稽古、稽古。

 ナノカも、電車待ちのベンチで宿題をして、帰りの車で爆睡して、、、アイドル並の忙しさ、再び来る、だ。

 そんなに忙しくて、疲れが溜まっているだろうに、ナノカが、ポツリと「もうすぐ、終わっちゃうなあ、、、」と言う。自分が演じる役は、仮想の舞台の上にしか存在しない。舞台が終われば、いなくなる。さびしいようだ。

 そのことは、きっと、他の出演者の人も同じだと感じる。それぞれが、スーツや制服、作業着などを着て、それぞれの職場から稽古場にやってくる様子は、まさに「わが町」。演じることを、日常に負荷をかけてでもやりたいと願う、熱があるのだ。

 演じるって、なんだろう、と思う。コロナで、不要不急って言葉に翻弄されて、いったい何が要らないものなのかとか、だれが判断できるのか、考えさせられた。わたしの仕事も、グレーゾーンで、自分で判断しなくてはならず、結局、歩みを止めたものも多かった。されど、取材は、文化は、創作は、表現は、要らないものなのだろうか?緊急時には、命が最優先なのは当たり前だが、人は心も健康に保たなければいけない。どこかでバランスを取るべきラインがあるのではないだろうか。

 ナノカは、もともと、舞台を観るのも好きだったし、数年前からは演じることに興味が出てきた。コロナの波を除けながら、観ることも、演じることも、なんとか続けさせてもらった。それは、辛いことを乗り越えたり、自身を成長させたりすることを助けてくれた。演じる、は彼女には、とても必要なことだった。

 歴史を紐解けば、演じるということは、なんと古いんだろう。古代から、人が営み続けてきたということは、社会動物である人間にとって、そして脳みそが大きくなったホモサピエンスにとって、必要ななにか、があるんだと思う。

 ナノカは、よく「人間は、脳みそが大きくなりすぎた」という話をする。類人猿が肉食をするようになった後、脳が急速に大きくなり、他の動物に君臨するようになった。大きくなり過ぎた脳は、私たちの手にあまるほどの力を持つ。それを、欲のために使えば、不必要なまでの収穫を手に入れることも可能だ。そして、そのことで他の生物を圧倒して、地球をダメにしてしまうのが問題となってると言える。

 成功者になるために、という話を聞いていると、なんらかの形での搾取のことが多い。システム化されていて、直接、手を下してないので、見えにくくなってるだけだ。「頭のいい」人の話というけれど、地球の未来を俯瞰してみると、大きくなり過ぎた脳みその使い方として、それって正しいのだろうか?頭がいいのか、わからないな、と思う。

 ホモサピエンスが、脳の大きさを拡大した時に獲得したのは、巨大な大脳新皮質だ。そこは、言葉を生み、文学を生み、演劇を生み、人と共感し、感動することができる機能を持つ。大脳新皮質は、ホモサピエンスが平和に生きていくためのヒントを隠し持ってるはずだ。

 とまで考えて、演技してるわけじゃないんだけど、、、ナノカは、ミナモトという、佐世保を作った新米の神様の役を、初々しく、演じている。

2021年9月15日

個展準備 Exhibition at my town

 

 夏に、実家の荷物整理に行き、大型の絵を引き取ってきた。こちらは、ニューヨークでジャズのライブ用に描いた絵。

 倉庫で眠らせておくのも、どうかと思い、しかるべき所に飾ってもらえたらと思い、いくつか売却することにした。

 ちょうど、ソリッソの森さんに紹介してもらって、10月末から 「かんころもちと教会の島」の原画展示をすることとなった。合わせて、今までの作品も飾らせてもらう。

 ということで、日本に輸送する時に、フレームが壊れてしまったままだったのを、額装し直す。そういえば、ナノカが3歳ぐらいの頃、原画を額装してたら、ペンで落書きして、「あい」って、持ってきたことがあった。サインを入れる作業を見て、マネしちゃったのだ。さすがに、もうしないよね。

  絵を見ると、その絵を描いた時のことを、思い出す。今は、家族もいて、簡単には、足を運べなくなったニューヨークの空気が、ここにある。

2021年9月14日

次回のテーマ Next art class

 

Play with Accident  偶然と遊ぶ
 

 さまざまな情報と、価値観が行き交う中で、なにを選ぶか、難しいなあ、と思う。

 考えた末、リトルアーティストは、わたしがワクチン接種を終わらせたら、再開しようと決めた。10月には活動開始できるだろうと思ったら、佐世保市施設はフェーズが下がるまで、予約できなかった。いたしかたない。

 ナノカの演劇も、マンボウの発動と共に学生は参加できなくなっていたけど、先週末から、合流可になった。毎回、参加者全員が抗原検査をしてから、稽古に入る。そして、9月末公演を目指す。 

 アルカスは、施設が新しく、換気のシステムがいいこともあるが、それ以上に、やれることを続けた姿勢が、ありがたかった。おかげで、この1年半の間、ナノカは演じることもだけど、ミュージカルも、バレエも観ることができた。

 学校は、修学旅行も、宿泊研修も、運動会も、やらない選択肢が一番、安全だ。でも、もう1年半。その間、子どもは、8歳が9歳、10歳にもなり、2歳が、3歳、4歳にもなる。体験の空白は、成長期の子どもには、あまりに大きい。こうなったら、困るから辞めよう、ではなく、ならないための対策は何か、起きてしまった時には、どう対応するのか、しっかりと決めて、実行する。

 できることは、やる時が来た。みんなでルールを守り、手探りで、やれる範囲を模索する時期。

 わたしも、なにができるのか、できないのか、工夫しようと思う。次のプロジェクトは、とりあえず、机でそれぞれが絵を描く作業にする。コントロールフリーの絵を描いて、遊びたいと思う。

 はやく、やりたいなあ、、、

2021年9月9日

これからの予定 Schedule

 

一番、見つからない忍者の服の色を調べるナノカ she was trying to find the color which Ninja should wear to avoid being found.
 

 昨日、小学校の夏休みの作品展を見に行った。

 みんな、夏休みの間に、親御さんと、ワイワイ言いながら、作ったり、調べたりしたんだなあ、と思ったら、とても、ほほえましい気持ちになった。

 ナノカの小学校は、今日、授業参観だ。対策について説明が配られた。基準を作り、それを守りながら、「今」を空白の時間にしない意気込みに、頭が下がる。 全部ダメも、なんでもオッケーも、議論をしない点では同じ。話し合って、落としどころを見つけていきたい。

 さて、お休みしていたリトルアーティストだが、わたしのワクチン接種が完了(9月半ば)後に、再開することにした。

 体温チェック、マスク着用、換気、席を離して、最初と最後に手洗い。感染状況を見ながらだけど、対策をして、やれることは、やれたらな、と思う。

 

これからの予定

10月3日 

佐世保市立図書館オンライン講演会 「かんころもちと教会の島」ができるまで


 

10月21日〜11月7日

Sorisso riso 千綿第三瀬戸米倉庫 

にしむらかえ展覧会 「かんころもちと教会の島」原画その他

 

2021年9月6日

カンコロの島紀行8月 Goto Article

 
8月号の記事。

8月頭に、上五島を訪れた時の、「現在」の様子を描きました。

 最近、しみじみ思うのは、イメージと、現実は違う、ということです。

 たとえば、都会の人に、離島の話をすると、「島の人は、島時間で、ゆっくりなんでしょう。いいなあ。」と言われるのですが、実は、島の人は、とても忙しいです。天気を気にしながら、家の手入れから、畑のこと、教会のこと、日常は「すること」でいっぱいです。都会の人たちのような、時計に追われてはいないかもしれませんが、忙しいのです。

 島と教会、というイメージに関しても、ロマンチックな雰囲気を思い浮かべる人も多いのですが、現実は、お掃除に始まり、地道な日々の積み重ねです。信仰は、個人的な「心」の部分が大きく、それを感じるには、ただ建物を訪れるだけでは、感じ取るのが難しいです。

 少し前に、海外の文化を紹介する、昭和期のドキュメンタリー番組を見る機会がありました。当時、とても人気のあった番組でしたが、神秘的に行間が埋められているのが気になり、制作側のイメージで語られていると感じました。当時は情報があまりない中、番組を観る人も、遠い地への憧れを求めていて、そういうつくりになったのでしょう。でも、今見ると、ちょっと違和感を感じました。

 わたしも、実在の人や場所を描くにあたって、自分の勝手な理想やらイメージに当てはめてないかな、と意識します。現実を切り張りして、自分のお話にしてしまってはいけないですから。

 インターネットが普及して、誰でも、簡単に発信できる時代になりました。発信するスピードと量も変化しました。なんでも事実だと思いがちですが、現実を切り取って、貼り合わせたものは、必ずしも、事実を表してないことがあります。作り手が意図的に、自分の都合や、人の注目を集めるための切り張りをしたり、演出をすることもできます。一見、事実に見えてしまう分だけ、作り話より、たちが悪いこともあります。情報の真偽を見分けることは、なかなかタフです。

 事実を伝えるためには、どんな形がいいのだろう、と考えてしまいます。情報が溢れる中では、小さな記事の一つかもしれませんが、チャレンジだなあと感じながら、毎回、書いています。

2021年9月3日

ダンスだんす Dancing!

Nanoka has taking ballet lessons since she was 5. She danced based on her ballet, so it was always very classic.
When we got catchy song on radio, then I asked her to dance. She refused it.

"Come on. Just feel and move your body!" "No, I can not. You do wonder dance."
"Yeah, you should do. You wrote on the story in the magazine,"Lots of wonder".

 泣き落としで、習い始めたバレエ。5年が経った。

 運動不足もなくなるし、姿勢も良くなるし、根性もつくし(意外に体育会系)、いいことづくめに感じるが、傾倒しすぎてて、バレエの動き至上主義なため、何を踊っても、かたい。本人も、ポップな踊りに苦手意識があるようだ。

 もっとリラックスして、いろいろ楽しめばいいのに〜、と思って、ノリノリの曲をかけて、誘ったら、「たくさんのふしぎ」ダンスと名付けられた、、、

2021年9月1日

休んでもいいし、行かなくてもいい Back to the school or just absent


 うちの娘は、去年、学校を2ヶ月、休んだ。いろいろあって、だんだん様子がおかしくなっても、最後まで本人は、「負けたくない」と、行こうとしていた。

 低学年だったので、まだ親との関係が近く、気持ちをわたしに伝えてくれた。だから、SOSをつかむことができて、親が、学校を休ませる判断をした。

 その後、2ヶ月、家にいた。ひたすら本を読んでいた。わたしは家で仕事をして、その間ずっと、となりに座っていた。

 今は、転校した学校に通っている。すべて順調とはいかないかもしれないけど、勉強は楽しいと言っている。好きなことは、楽しいし、苦手なことは、気が重い。そんな生活だ。

 思い返すと、学校へ行こうとしている娘を止めるのは、簡単なことではなかった。最後まで、休みたいとは言わなかったし、外では、元気に振る舞い続けた。どんなに、心が疲れてしまっていても、それを自分自身で気づくのは、難しい。

 人生の中で、ちょっと休むことなんて、じつは、よくあることだ。わたしも、数週間単位で高校を休んだことがあるし、大人になってからも、寝込んで、療養してた時期が何度かある。

 社会には、いろんな生き辛さが存在している。それを避けて、通れたらいいんだけど、だいたいの人は、どこかの時点で、どれかにぶつかる。子どもに、その不条理がふりかからないといいな、と思うけれど、残念ながら、結構かかる。子どもの社会だからこその、閉鎖性や未熟さも加わって、深刻なことだってある。

 難しい局面を、大人だって、乗り切ることは難しい。子どもが自力で、乗り越えることは、とてもとても、難しい。

 大人が気づいて、環境を整備してあげることができたら、いいのかもしれないけど、大人が全部に気づくとも限らないし、大人が解決できるとも限らない。大人が原因のこともある。最悪な環境が、まったく改善されない状態が続くことだって、ある。

 だから、休む、という選択肢は、常に、あっていいと思う。

 9月1日。一応、「休んでもいいからね」と声をかけた。特に、思い当たる理由もなかったけど、言うだけ、言ってみた。

「は?ママは、すぐ、そうやって、適当なんだから」と怒られた。

 でも、いつか、そういう場面が来たら、気軽に休んでもらえたらな、と思う。