カンコロ紀行の3年目、最後の記事を書くために、取材に行った。
ここ半年、島に行くことが、ためらわれる時期が続き、頭を悩まし続けた。本を読んだり、調べ物をすれば、新しいことを知り、記事が書けるぐらい、カンコロの背景は広く、深い。それでも、人の営みをテーマにしている以上、今を生きている人たちの温かみがないと、魅力が伝わらない。「私が見た」ということが、記事に熱を持たせる。
GOTOキャンペーンが始まり、人の動きが出はじめた。そろそろ、行ってもいいだろうか?
でも、より親しく、より身近だからこそ、島に行くことでのハレーションがどれぐらいなのか、考えてしまう。絶対、迷惑をかけたくない。自然、腰が重くなってしまう。
そんな中で、日帰りで、本土に近い島なら行ってもいいんじゃないか、と自分なりの考えで思った(本土との行き来の利便性から、ふだんからの往来歴、そして医療体制の連携などを推測)。そして、思いついた唐津の離島。
佐賀県に、潜伏キリシタンの島がある事を、どれぐらいの人が知っているだろうか?わたしは、3年目にして、初めて知った。衝撃だった。と同時にうれしかった。次から、4年目に入る連載。でも、まだまだ、知らないことがあるなんて!新鮮な気持ちで、まだまだ続けられそうだ。
馬渡島の人は、おっとりとして、おおらかだった。世界遺産の波も来ておらず、観光客も、いなかった。店もほとんどないし、案内もない。情報がなかった理由も、その辺りなのだろう。
島の人にしてみれば、かんころ餅は昔からあったし、カンコロだなもあったし、私に発見!と言われたくないだろう。でも、前情報が見つけられなかったため、自分の足と目で、発見した!という感動を味わうことができた。
世の中は、情報があふれている。そう、ネット社会が感じさせている。でも、実際、わたしたちは、前より、「知っている」のだろうか?
まだSNSが始まって間もなかった20年ぐらい昔、わたしは、手痛い失敗をした。人があげた中越地震後の混乱に関する訴えをそのままシェアした上で、「警察、ひどいですね」とコメントを加えたのだ。
それを、「その人の書いた事は事実だと、確認しましたか?あなたのしている事は、無責任な情報を拡散して、混乱を大きくする、迷惑行為ですよ」と、注意してくれた人がいた。
わたしは、当時ニューヨークにいて、日本の地震のことについて、まったく、知りようもなかった。言われた通り、わたしは、不確かな情報を信じ、そのまま、広げてしまったのだ。
すぐに、訂正して、さらに拡散してしまった人たちに謝罪して回った。あっという間に広がった、不確かな噂話程度の情報。悪気はなかったが、影響力はあった。その恐ろしさを実感した。
以後、シェアする時も、記事を書くときも、「事実であろうか?」と慎重になった。自分の体験に基づく感想なら、一番事実に近いだろう。それもあって、足を運び、人に会い、自分の目で見たことに対して、感想を述べるように、より努力するようになった。
もちろん、わたしが、こうして書いている「体験談」とて、文字情報である以上、次に読む人にとっては、事実である確認が取れない。そういう意味で、いかに誠実で公正な情報を提供しようとしているか、信用される行動をとり、文章を書き続けることは、1つのチャレンジだと思う。
また、読み手としても、「聞きたかったこと」「そうであってほしいこと」や、「感情をゆさぶる事実」に惑わされず、しっかりと読解力を持ってのぞみたい。
情報が溢れるからこそ、とても、難しい時代なのだと思う。
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