帰省前。みんなに栞を作り始めました。 |
貼り絵、後ろに本から引用、編み紐、表面に保護をつけ、穴を開け、、、丁寧な仕事。 |
明日から、3泊4日で、愛知に帰省する。秋休みという、謎の休みのおかげで、混雑を避けて、帰ることができる。
帰省を前にして、突然、ナノカが栞を作り始めた。最初、切り紙で作った人形を、「何かに使えないかな」と 持ってきたので、栞の台紙に貼ったら?と提案したところ、気に入ったようで、親戚の人数分、和紙を切り、ひとつひとつ、作りはじめた。
紐を編み出した頃から、ちょいやり過ぎてるなあ、とも思ったけど、こういう思いついた事を、最後まで、段階を追って、丁寧に仕上げられることって、すごいことだとも思うので、最後まで付き合った。
コロナのせいで、「なんのために、生きているんですか?」は、改めて、考えさせられるテーマだ。
介護職の方と話をしてたが、介護施設の高齢者は、面会謝絶となり、家族に会うこともなく、弱っていく。その事に、「規則は規則だし、仕方のないことだけど、、、」と前置きをした上で、「でも、いったい、何が正解なのだろう?」と、悩んでいた。
教育に関しても、いろいろと思う。フィンランドの教育の本を読みかじってるけれど、あちらでは、「子どもの権利」という考え方が浸透していて、子どもも自由に物を考えて、生きる権利がとても大切にされている。
今、子ども達が学んでいる勉強は、彼らの自由な心、幸せを、支えていくものなのだろうか?
わたしは、ナノカに、生きる力、選ぶ力、考える力、人生を幸せにする力を、身につけてほしいと思う。
だから、歌えたらいいなと思うし、泳げたらいいなと思うし、人とうまく話せたらいいなと思うし、よい文章を書けたらいいと思うし、数字から論理的な考察ができたらいいなと思うし、正しく資料を読めたらいいなと思う。
でも、それは、彼女がそれを、楽しいと思いながら、世界を広げる中でないと、結局、身にならないのではないかな、と思う。そこが、教育の腕のみせどころじゃないのだろうか。
大切なのは、覚えた知識の量ではない。知識を得る喜びだ。
公式の正しい当てはめ方ではなく、数字を使うと、いろいろなことがわかるという驚きだ。
出雲に行きたいと言っていたナノカに、古事記の本を買った。数時間で読んでしまうと、「原文が読みたい」「神様の名前を覚えたい」と言いだした。うちの子は、本から、世界が広がるタイプなのだ。
されど、ナノカは、記憶力があまりよくない。もし、神様の名前を覚えて、テストをすることになったら、50点を切ってくると思う。これで、日本の教育は、「賢くない」と判断してしまうのかな。
もはや、ただ、自由な時間があることだけでも、貴重になりつつある昨今。「あそぶ」時間は、子どもの権利だけど、それが保証されてるようには見えない。じゅうぶんに遊ばないで育った人は、大人になれていないように思う。心に余裕がない。子どもにやさしくない。遊びに嫉妬をしている。
子どもに、宿題のことを「我慢の訓練」と言っている人がいた。我慢の訓練なんて、他にいっぱいする機会がある。
「なんのために、生きているのか」は、結局、「なにのための教育か」を考えさせるし、「教育の結果、今、生きているわたしたちは、本当に、幸せか」につながる。
ナノカは、なにはともあれ、幸せそうに栞を作っていた。