学校から帰ると、すぐに飛び出して行き、川で遊ぶナノカ。
その前の日は、夜遅くまで、アカテガニの幼生放出を見に行っていた。
川に、海に、山に、、、週末や、学校帰りにも様々な発見があり、楽しい日々だ。
ナノカの夏休みが、もうすぐ始まる。
夏休みの期間は、9日間というサラリーマンの盆やすみ並の県から、すこし短縮をします、 という所まで、まちまちだ。
そのことに関して、最近「子どもの夏休みが短い」と、「詰め込み学習反対!」の議論が一緒になされていることに、違和感を感じる。すべてがごっちゃに議論されると、大切な論点がずれてしまって、反論しにくくなる。
そもそも、それとこれは100%が一緒の話ではないと思う。
夏休みが短くなったら、子どもの心が追い詰められる、 のだろうか?
学校が楽しい子にとっては、友達とともに活動することは、苦痛じゃないはず。
3ヶ月の休校の間、「人と活動を共にして」「共に学ぶ」「いろんな体験をする」の機会が失われた。
学習の機会も失われたので、学ぶべき単元が3ヶ月分遅れてしまったことも、学校教育の現場では無視できない事実だろう。
もし、学校が、机に座って、話もせず、学習の遅れを取り戻すためのプリント学習や、授業がガチガチに詰まっていて、子ども達が疲労しているのなら、夏休みが短くなるのは問題だろう。
でも、通学期間を延ばす事で、たくさん体験学習や、学級活動を入れた、楽しい学校生活が続くのであれば、逆に「詰め込み学習」を回避できるのかもしれない。
「夏休み短縮→子ども達のストレス」という図式ありきで議論してしまうと、「夏休みを短くしてください=子どもの学習の遅れを取り戻すのに必死な親、教師」となりかねない。
でも、そもそも、子どもが何を望み、学校が何を提供していくのかによって、まったく論点が変わっていく。議論はそんなにシンプルではないはずだ。
最近、この「シンプルな結論で人を動かす」ことが気になる。
複雑な社会の、さまざまな情報を考慮していると、混乱するから、
「これは、こうです」
と考えてしまうシンプルさに、人は惹かれるのだろうか。
事実は、めんどうくさい。
知ることも、調べることも、ズブズブと深く、きつい道のりだ。
さらに、それを話し合おうとすれば、ぶつかり、悩み、結論が出ない。
でも、そういうものだと割り切って、私は淡々と、知りたい。考えたい。
それは、わが家で、知りたがりの論客を養育しているからもある。
どこかで、ちゃんと情報が集められ、分析され、可能性がテーブルに並べられ、論点が整理された状態で、冷静に議論されていると、信じたい。
プロフェッショナルな人々は、このめんどうくささを、がんばって貫いてほしい。
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