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2014年4月16日

Public transportation 公共交通機関

Nanoka talks and sing loud in the bus on way home. Passengers are patiently and kindly looking at us in Sasebo.
私は、ナノカのお迎えに、市営バスを利用している。ナノカは、1、よくしゃべる 2、声が大きい 3、歌う という事で、まあまあ、うるさい。そもそも、子供の声は、人の注意を引くために、トーンが高く、耳につきやすくできていて、それが、耳障りになる。しかし、おしゃべり、歌、笑い声、は、機嫌良く、楽しく、バスに乗っているだけなのだ。奇声や泣き叫ぶ声なら、いざ知らず、楽しく、歌を披露してる2歳児を叱りつける訳にもいかず、止めるのは、難しい、、、ありがたい事に、同乗の方々は「上手かね」「かわいかね、いくつ?」「ともだち、いっぱい、おらす?」と声をかけくれる。1時間に1本しかないバスのため、乗客の顔ぶれがいつも同じで、顔見知りなのも大きいのかもしれない。眠くて、ぐずって泣いてしまう事もあったが、1時間に1本しかないバスを降りろ、と思う人もいるはずもなく、許してもらっている。恵まれた環境だ。
そして、思い出すのが、首都圏の電車だ。ナノカが10ヶ月までしかいなかったので、そもそも遠出をする機会も少なかったが、最後の1ヶ月、引っ越し前の挨拶回りもあって、ナノカ連れで都心部まで、何度か出かけた。極力、通勤時間を避けたが、それでも、帰りに17時台に電車に乗ることになってしまう事があり(もう少し、遅かったら、子連れで乗る事自体、不可能だっただろうが)、すでに始まっている混雑にブチあたってしまった。扉が開いて、子連れの姿を見ただけで、舌打ちをした人もおり、ナノカがグズグズ泣き始めると、車内から、ため息が聞こえ、、、本当にいたたまれなかった。その電車を降りた所で、また、次の電車も、同じように混んでいるのだから、恐縮して、「スミマセン」「スミマセン」と謝りながら、乗り続けるしかなかった。涙が出そうだった(気の毒がって、降りた時に声をかけてくださった、先輩ママさんに救われた事もあったが)。
どうやっても泣きやまない0歳児でも、迷惑がられたのだから、今のナノカを連れて、あの電車に乗ったら、大ひんしゅくを買うだろうな、と思う。私は、「子供を、しつけれていない母親」ということになってしまうのだろうか?決して、完璧なしつけをしているわけではないが、問題になるほど、特別マナーの悪い子供ではないと思う。ただ、2歳児は、そのままにしていても、うるさいのである。
思い出しても、それが現実だったのか、と思うぐらい、ここは、別世界である。佐世保では、フルタイムの通勤で公共交通機関を使っている人が、ほとんどいない事、いたとしても、長時間移動ではないので、それほど苦痛じゃないのが、大きいのだろう。バスでも、電車でも、デパートでも、ナノカは街中から、声をかけられ、やさしくされ、社会に愛されて当然だと思って、育ってきた。
人間が、場所によって、それほど違うとも思えないので、そもそも、首都圏の通勤というシステム自体が、苦痛が大き過ぎて、いろいろな人間を許容できなくなっているのだと思う。でも、「働く大人」以外を乗せられない場所になっているのなら、公共交通機関としては、欠陥品だ。子供が乗って騒いだら、迷惑だから、遠慮してくれ、というのは、「現実」だと思うが、「正しいこと」ではない。満員電車内で子供の声に、腹が立つ事があったら、子供と親にではなく、システムにまず怒りをぶつけて欲しいな、と思ってしまうのは、親側の勝手な気持ちだろうか?
Nanoka is 2 years old. We took the public transportation every day to home. She 1 talk a lot, 2 her voice is loud, 3 sing the songs suddenly and it is noisy. First of all, kids voices are high tone to get other's attention by nature, so they bother people mind. But it is hard to stop 2 year old to talk and sing happily. In bus here, passengers know each other since it is only bus per hour and they are kindly allowing Nanoka to do so.
Sometimes I remembered the train in Tokyo. We only lived until Nanoka's 10 months and rarely traveled to the center with a tiny baby, but before moving, I had to do some business meeting and I went to visit business area with Nanoka. I tried to avoid the rush hour, but it started at 5pm and I got on some rush hour train. It was nightmare. When opening door, a business man clack his tongue seeing us and in the crowded train, Nanoka started to cry and somebody signed. I knew any kids and babies are not welcome but I need to take the train anyway.
I imagine that present Nanoka would bother passengers in Tokyo. It is such a big difference between the atmosphere here and there. I do not think the people are so different. I think that uncomfortable long travel makes people sick. It was not the kid but the transportation system that these kinds of troubles in the train. Or do you think it is only parent's idea and I gave Nanoka bad education?

2013年3月8日

Nobody is perfect ノーバディーズ・パーフェクト

Fever, mom and kid. from MMJ 発熱。MMJより
Cherry Blossom season with family. from MMJ 桜の季節。MMJより
子供は、風邪にはじまり、胃腸炎、中耳炎、アレルギーにじんましん、オムツかぶれに、切り傷、やれ、できものだ、腫れ物だ、と年中、病気のオンパレードだ。調子が悪ければ機嫌が悪くなり、さらに悪くなるとぐったりして、母親は心が休まる事はない。今週、私は、ナノカの中耳炎の治療に耳鼻科に通っているが、花粉症の季節だからか、混んでいて、毎回2時間以上待たされる。小さな子供には、この待ち時間(雰囲気も嫌いだ)が苦痛で、ぐずぐず泣き続ける。たった5分、ちゃちゃっと耳を掃除してもらうために、ぐずぐずの相手をしながら、母親もじっと耐え続ける。私は、病院があまり好きではないので、自分の事だったら、毎日通うなんて事はしない。ナノカの耳は、私の耳より大事な問題だ。こんなイヤがっている場所に連れて行くのに、ナノカは私の事を信頼しているようだ。鼓膜切開をされた後も、私に「ぎゅーっ」とつかまって、ニコニコしていた。
実は、私は、ナノカの「ママが好き」という態度を見ると、不思議な気持ちになる。幼少期、自分の母親が厳しかったため、「母親はこわい」というイメージが強く、苦手だった思い出があるからだ。私の中で、「母親は、しつけをするから、子供がこわがる、けむたがる存在」と、どこかで思い込んでしまっている。なので、ナノカを、ぎゅーっと抱きしめて、ナノカが「でれ〜」と、うれしそうにしているのを見ると、「あ、ナノカは私が好きなんだな。私も捨てたもんじゃないな」と、ほっとする。それに勇気づけられ、また、母親をがんばれるのだ。
小さな子供がいる身として、虐待のニュースを見ると、心が痛む。具体的に、小さな体や心が傷つく姿が思い浮かんで、「あってはならない事」だと、涙が止まらない。しかし、同時にそういう事が起こりえる状況も、全く想像できない訳ではない。子育ては、普通に大変で、さまざまな忍耐を、予想外に24時間求めてくる。泣き叫ぶ子供の声に追い詰められたり、自分の限界を感じたり、忙しさの中でパニックになったり、という場面は、誰にしも、度々あるのではないだろうか。私には、子育てに協力的で理解者であるパートナーが側にいて、困ったら相談に乗ってくれる親がおり、食う/寝るには困らない生活に支えられている。それなりに年もとっているから、「これは、この時期だけなんだろうな」「これは成長の過程だから、受け入れてあげなきゃいけないんだ」など、頭で理解して、自分で思いとどまる事ができる。でも、あの時、支えてくれるパートナーが不在だったら?経済的に困窮していて、常に疲労と不安の中で、生活に追われていたら?さらに、若くて、まだまだ自分のしたい事でいっぱいの時に、未熟な母親が同じ状況になったら?起こりえない事ではないと思う。メディアや、どこぞのコメンテーターが、「最近の母親がなってない」からだと責めたてるが、確かに、親が未熟で押さえきれずに、起こるものかもしれないが、そこを暴き立てても、問題解決には意味がない。一番大切なのは、一番弱く、まだ自分で生きられない「こども」という存在を、守ってあげる事なのだから。「責めるだけ」は誰でもできる。難しいのは、どうやって、具体的に、制度を整え、社会が支えるべきなのかで、そこを話し合って欲しい。
Nobody is perfect だれも完璧ではない。母親であるからと言って、すべての人間が、母性にあふれ、常に子供100%に考え、いつも、やさしくいられる訳ではない。子供から目を離す事なく、きちんと家事をこなし、家はちゃんと片付いた状態で、夫の仕事や事情に理解があり、かわいいお弁当を作り、栄養に心配りをしつつ、公共の場では子供に騒がせず、言い聞かせるように躾をし、そして子供は健康で、自主的で、意欲的で、社会性があるように育てて当たり前、とはいかない。そこに、さまざまな事情が入り混じり、子供の個性があり、母親の考えがあり、父親の考えがある。思い通りにならないのは、本人達にとっても葛藤だ。それでも、毎日を紡ぐように、家族は生き、子供は育つ。ちまたで聞く「よい母親/こうすべき子育て」からは、毎日、ずれてるように思うが、ナノカは無事、育っている。 どんなに理想からずれても、少なくても、「あなたを好きだから」だけは、真実。そして、子供は、それをちゃんと受け止めてくれる。子供とは、なんと、やさしくて、おおらかな存在なんだろう、とも思う。

2011年4月28日

after the quake 事故の後で、、、

When I saw the news of nuclear accident, I was so shocked. Since I was educated by my mother who was against the nuclear plants, I learned the risk of that since childhood, and I was hoping this would never happen. 福島の原発事故は、妊娠中の私には衝撃的だった。小さな頃から「原発はリスクが高い発電」という教育を受けていて、それなりに知識があったので、起きてはいけない事が起きてしまったのだと、恐怖におののいた。

I felt especially sorry for next generation including my baby. What had we done for them? Our spending the convenient lives brought the damage of the nature. Do we really need the toilet warm for 24 hours? I just switch off it, but it was too late,,, お腹に子供がいたからもあったのだろうけど、本当に「なんて事をしてしまったんだろう。贅沢や便利に慣れて、大切なものを見失って来たのでは?」と自分自身にも後悔した。何かに対して発言したり、アクションしたりする事を、徐々に忘れつつある現状も原因に感じた。何をしたらいいのかわからないから、トイレの便座をとにかくオフにしてみたぐらいだったけど、、、

I saw some news of some other countries reaction. Some made me down and sad. Much misunderstandings were just spreading over the world. It is true that Japan has area of nuclear accident now, but it was not all over Japan. Also radiation is not virus or something. As a Japanese, I felt terrible sorry to make all the world worry, but some information are not true at all. The fear made some wrong information and that brought another wrong information. 同時に、各国の反応も辛かった。外国にいた事がある身としては、空港で放射能チェックを受ける日本人や、日本製品への嫌悪感などのパニックは想像できて、悲しかった。決して、世界の中で、日本人が環境への意識が低かったり、平和への思いが弱いとも思えないのに、なぜこんな事に、、、と落ち込んだ。

I understand what could happen outside since I had similar experience when I was in NY. Japan had experienced earthquake in Nigata about 5 years ago and I got copied letter asking what damaged area needed through Internet. Since I was far away from Japan and I put the information on my social network page just thinking it would help them. But in a while, I got warning letter from the graduated student in Japan not to put any info before checking if it was from right source. He said that the wrong info would disturb the right rescue movement. I noticed that I did not check where the info came from and if it was still in need. But my page was already copied by some friends and they also put it on their pages and those info spreading. I apologized and removed info. Now even the journalists are using internet as a source and spreads so fast before checking the real life in the area. I hope that people oversea would see the right info after then. One accident happened. But the world is still going on, and I want my children and other children to live hopeful lives. The problems is not only this, but also many many things. I want to learn what we can do and what is possible, and keep thinking to choose better solution for the future. Right now, I just switch off the toilet warming system, though... 外にいる人間に間違った情報が広がりやすいのを、私は経験済みだ。新潟の中越地震が起きた時、ニューヨークにいた私は、「現地で不足しているもの」に関する「生情報」と呼ばれるものを受け取って、なんの気なしに自分のインターネット上のページに載せた。すると、しばらくして日本人の大学院生から抗議文が届き、「情報の正確さや、発生源を調べもしないで載せる事は、混乱につながり、迷惑になりますよ」と言われた。考えてみれば、確かにその情報のもとは不確かだった。すぐに謝罪して取り消したが、すでに私のページをみた人間がさらにその情報を流していて、広がっていた(それは、外国にいる日本人同士の間で特に広がってしまった)。今まことしやかに流れている情報も、確かめられる場所から離れる程、情報源自体があやしくなり、チェックもできなくなる。外国の報道がその後、正しい情報で塗り替えられていってくれれば、と願う。報道やメディアは、人間の感情や世論も簡単に動かせる、非常に危険なものである事も、9/11以降に海外にいた事で実感することは多かった。自分で判断できるよう学び、賢く情報を選び、どう動くか、は本当に大切な事だと思う。自分の子供も、どの子供も、希望のある世界で生きていって欲しいと思う。そのために、何ができるのか考えて、生きていきたい。今は、便座のスイッチを切る事しかできてないけど、、、

2011年4月12日

who is acting? 誰のせいか

Several years ago, I did "Peace Show" with my friends in NY. It was very good experience for me including difficulty and hardship of funding. From that experience, I had one conclusion. Acting is very important and no meaning to just criticise even those people are smart.
I knew that our action was very small and had so many problems, but we had will to do something for world peace. It could be "silly childish idea" for sophisticated business people, but as artists, it was really important to have voice and move. So we did even it was small start. However, some of my friends in Japan just criticise or ignore. If they know better solution, please let me know. If they can help us, please let do something. I know my friends were all smart and nice business people, so they might know better, but they did nothing. If they thought we were wrong, I wanted to hear directly, but they joked it behind me. They paid nothing. It was very bitter experience for me.
I am not talking badly about them. I just understood it as Japanese tendency about matters. They are nice people and nice business people, but very bad about acting for society by own idea.
Now when I was watching TV, they are just criticising the Government. But who is really acting for this disaster? Journalists are just criticising that the Government delay informing the new service for people in shelter. Well, can be so, but you also have ability and responsibility for informing the latest information to people. Why don't you acting at the same time to criticise.? Same thing to politicians in other parties. They are just criticising and waiting for the present Government would decline after a while. But the Government asked them to join to act for this disaster and they refused the offer. This is Japanese biggest disaster and so severe that it is time that everybody should do what they can do if they have ability. And politician should act. Why they refused to corporate with the present Government and just kept quiet? And why citizen still believe that those "no action" politicians can do better than who is doing the best at this point? Acting is always having lacking and mistaking rather than doing nothing, but somebody have to do something for operating the society. Also it was not right to think that this change is somebody's responsibility. We got the tragedy and we have to face on. Even we did not hope, we cannot go back the time before 3/11.
私は、むかーし、平和展なるものをニューヨークの友人とやった事がある。その時のことは、大変だったけど経験として、今も教訓が残ってる。その主な一つに、「行動せず、批判する事は、簡単だ」という事だ。洗練された意見だったとしても、行動を伴わないものは、意味がない。それは、立派なビジネスマンである友人達であっても同じ、私は「これは日本の特徴なんだ」と思った。それは、ニューヨーク時代に、「とりあえず、やってみよう」「いいね!」の感覚で生きてきた自分にとっては、カルチャーショックだった。失敗する事もないのかもしれないけれど、社会を変えてくれるようにも思えず、息苦しく感じた。社会が停滞する原因は、この「多くの批評家達」の存在のせいなのかもな、とも思った。もちろん、現状の日本を支えているものでもあるのだから、ダメだとも言えないのだけれど。とにかく、何かを変化させて行く時には、批評家になってしまうと何も変わらない。一つずつ、行動していく事が大事なのだ。
現在、政府への批判が高まってるように感じるけど、私は、実際に動いている彼らを、協力を断ったり、なりをひそめている政治家が、自分達に運気が来るのを待ってる様子がたまらなくいやである。政治家なら、そして、「こうすべきだった」と思えるなら、自分が何かできる事をその時に、すべきだと思う。この緊急時になにもしなかった人間が、これからの時代に、なにをしてくれるのだろう?あきらかに人手不足なのに、国をゆるがす緊急事態なのに。報道機関も、「情報が行き渡っていない」という批判ばかりしてるけれど、情報を流すという基本的な役割を担う立場のメディアなら、それを批判する、というだけでは片手落ちのような、、、自分達も従来の役割にだけこだわって、何も新しい行動を生み出せてないのではないだろうか?(地元密着型の新聞社は、瓦版を発行して、行方不明者の捜索に大きな役割を買っていた。動いてる人は動いてるのだ)
この天災は、誰のせいでもない。この後、起こる生活の変化も、誰のせいでもない。3/11以前には戻れない。自分のできる事をしながら、変化とともに生きていく。それが、自分の役割なのかな、と思う。

2011年4月6日

Mothers 親の視点

I experienced 9/11 in NY. I was not afraid so much at that time. I thought that I was just unlucky if something happened on my head. I might not have been so serious about myself. Now I am so nervous to everything after 3/11. I was watching TV news and saw the notes of found dead bodies saying "7-8 month pregnant woman" and I could not stop crying. She could not ran from tsunami and also imagined how sad she was that she could not protect her baby. 
I know that people there must be in much much severe condition and still suffering, so I feel guilty about worrying about my baby, but I cannot stop doing that. When I talked with friends, or even with husband, they are trying to see the optimistic points of view. Thinking of the society working, we should not make another collapse by over reaction. But at the same time, as a mother of baby, I cannot stop being serious and careful. I feel myself mean, but who can really protect my baby? It is only me and my husband who have to study well and found right information and judge the facts. That is my responsibility. In this point of view, I am not good citizen.
At the same time, I also thought this point of view is really important to make better society for the future. If I think about my baby's future, I really have to think about the society world wide. Over business, over politics and over economy, each should think, talk and act. I do not know what I can do yet, though.
3/11以来、私はとても心配性になった。ニューヨークで9/11も経験したが、あの時は、「なんかあったら、仕方ないよね」と、さほど気にしてなかったのに、、、それは、やっぱり自分の国で起きた、という事、そして、母親になる、という事の違いなのだろうな、と思う。現地で被災を受け、今なお、生活もままならない多くの人々をさしおいて、「不安を感じる」事自体に、罪悪感を感じもする。社会の混乱を増長しないためにも、「きっと大丈夫」と楽観論をみんなで支持して、持ちこたえてる事も尊敬する。でも、私は、生まれてさえいないチビチビの安全を守ろうと神経質になるのは、止められない。だって、私と相方以外にこの小さい人を守れる人が、いるのだろうか?正しい情報、判断は、親である自分の責任なのだと感じる。社会に反してでも、子供を守ろうという気持ちにすらなる。
考えているうちに、こういう「親の視点」は、社会にとって必要なものだとも思った。子供の生きていく社会全体を変えていこう、という意識になるからだ。私の母はかつて、子供の教育や安全を願って、周りの母親達と協力し、家の近くに文庫を作り、給食から危険な食品添加物を撤廃させていた。非力な母親達が、いったいどうやって、子供やこれからの社会を守っていくかといえば、やはり、賢く学び、考え、声を上げていく事なんだろうな、と思う。自分が何ができるのか、まだ全くわからないけれど、、、
MMJ winter issue



MMJ spring issue

2008年8月27日

Dog's cookie ごほうびの理論


I went to the bank to check my account. I found only 30.000 yen there.
I have some projects in June, July and August, and I have worked and I had just finished.
It happend because the payment will come one month after publication.
So I am not complaining. The money will be paid. I know well.
仕事が一息ついたので、銀行に行って、通帳記帳してみました。
通帳には30000円しか、振り込まれてませんでした。6,7,8月と結構それなりに仕事をしてたので
なんだか、がっくり。でも、これ、仕方ないんです。
私の仕事は、その仕事が発行された翌月の払い込みとなっている事がほとんどで、
働けども手にするお金がない月って言うのは、よくあるのです。
ちゃんと、いずれ支払ってもらえるので、文句を言う筋合いでは、全然ありません。

(↑everybody got the treat after their performance)
However, a little unsatisfying feeling remains in my mind.
I worked hard. I finished project. I need cookies. Woof, woof.
This time gap makes me wierd. I guess my dog will never sit or stay for no cookie.
Probably I am that kind of type.
しかしながら、なんとなく、腑に落ちない。
一生懸命働いて、何個もプロジェクトを終わらせたのに、ほとんど無収入。
(働かないのに、振り込まれる月もあるので、トータルでちゃんと
考えれば、理にかなってるのですが、、、)
今すぐ、クッキーよこせ、ワンワン。
うちの犬は、えさなしで、おすわりとか、まてとか、できません。
私も、そのタイプなのかしらねえ。
いかん、いかん、人間ですもの。「まて」ですね。

2008年8月25日

Tale tells the truth 物語の効用

しばらく、仕事でこもってました。一息つきました。

「診療室に来た赤ずきん」という本を読みました。精神科医の書いた本です。
「物語には、患者さんの病気の原因になった状況を、うまく言い表してくれ、
納得させてくれる力がある」というような、内容でした。

そういえば、心理療法に箱庭療法というものが、あります。
箱庭は、患者さんの心に突き刺さった原因のトゲを、心の奥底から
自然と引き出してくれるのだそうです。そして、箱庭のいい所は、
心の中のぼんやりした暗闇から、箱の中に引き出してみても、事実として
はっきりと表れないで、抽象的なままな事だそうです。
例えば、「私は母を憎んでいる。殺したい。」という幼少期のトラウマを押さえ込んで
今の症状につながっている場合、
その事を言葉にすると、本人がさらに傷つく事があるといいます。
でも、抽象→抽象で発散してしまったのなら、なんとなく癒されてしまう。
(河合準雄氏の著作より)
物語は、そういう代役で、抽象的に誰かの気持ちを代弁し、共感をさせ、
思わぬ所で、そうした意図もなく誰かを癒すのでしょう。

知己の編集さんが、「読者の本離れは、現代人は本を読むという孤独に
耐えられなくなっているからだ」という説があるのだと教えてくれました。
読書に使われていた時間とお金は、携帯電話代に流れているといいます。
その説を、「お友達には、本は勝てなかった」と称してました。
(あくまで一般的な傾向で、今でも、本を読む人は多くいると思います)
なるほど、ポール・オースターも「孤独の発明」で言ってたけど、
本を書くのは、なかなか孤独な作業です。
それなら、本を読むのも、確かに孤独かもしれない。

でも、現実的には、人間、100%誰かと完全に理解し合って
始終寄り添っていることは無理です。それぞれ個性も価値観も違い、
事情も違うし、その上自分の意思とは関係なく、事件やドラマにも遭う。
携帯などで実際につながっている、生の人間にしか孤独を癒してもらえないのは
危うい気もします。
人は、誰しも、ちょっぴり孤独で、ちょっぴり寂しいもの。
不運な時も、不幸せな時もあるし、ずるい部分もあれば、弱い部分もある。
それを、物語は代わりに、堂々と語ってくれます。こんなにも不幸だけどしぶとく生きてたり、
こんなにもずるい事を平然としていたり、弱くて全然社会に適応してなかったり。

以前、私の「のんびり いもむし」を読んだ、若いお母さんから、
癒された、とメールをもらった事があります。
完璧主義の頑張り屋さんな彼女は、出産を期に仕事を辞め、育児に専念してたのですが、
理想通りに行かない育児や、早く復帰したいという気持ちなどから、
焦りを感じたり、自分を責めたりしてたのだそうです。
そんな時、「どんな事があっても、ま、いいか、と寝てしまう いもむしが
最後まで、結構、うまく行っちゃう」という話を読んで、
「そっか、まあ、いいか、だよなあ」と思えて、楽になったそうです。

私が、その話を書いた意図には、「若いお母さんに、大丈夫だよ、て
言ってあげたい」という、気持ちは別にありませんでした。
4歳ぐらいの子供が読むお話だったので、読みやすくって
場面がよく変わる、明るい話を依頼されて、書きました。
でも、どこかで、私も「ま、いいか」と自分に言い聞かせる生活をしてた時期でも
ありました。そういう意味で、私も書くことで、自分を励ましてた所があります。
どこかで、作者と読者は、つながってるのでしょう。

2008年8月14日

essay エッセイ


After I started some essay writing job, I have more interest in essay
by other authors. Essay is such individual writing.
Writer talk about themselves, but it is difficult how much they talk and
how much they do not. Very sensitive. Then readers enjoy some but
felt uncomfortable other times.
エッセイを書いてから、以前より他の人のエッセイの文章が気になるようになった。
エッセイはとても個人的な世界だ。書き手は少なからず自分のことを語り
(自分の見たもの、思ったもの、価値観など)
それをどれだけ語り、どれだけ語らないかは、自分のさじ加減。
その加減で、おもしろくもなるし、不快にもなる。とても繊細なものだと思う。

以前、ある女性のエッセイが苦手だった。でも、多分、それは
その作家さんのベースにある彼女の価値観と自分の価値観が合わないために、
不協和音のように、読んでいる間中、鳴り響いていて、なんとなく読みにくかったのだと
思った。かといって、自分と価値観が合わないエッセイが全部そうなるわけじゃない。
むしろ、違っていても、気にならないことが多い。
そこは、多分、「さじ加減」具合なのだと思ったのだ。

最近、向田邦子さんのエッセイを読んだ。
本の向こうに原稿用紙に向かう女性が感じられて、でも、その姿は
清清しくて、心地よい。本人がきっときちんとしているから、書けるんだろうなあ、とも思う
生活の節々の話。私みたいにだらしない人間は、生活を切り売りなんてしたら、
恥ずかしくて、穴にこもらなきゃいけなくなるだろう。

内田百けんも、文句ばっかりたれてる割に、気が弱くて、奥さんと仲がよくって、
愛情深そうな感じが、好印象。

他人の夫婦ケンカも、花瓶が飛び交ってるような、ハチャメチャしたのを
ちょっぴり垣間見るのは、実は、ちょっと楽しい。「ケンカして、発散して、
どうせ仲直りしちゃうんでしょう」て思うと、家族イベントにしか見えない。
ところが、間に入って、ドロドロした相談とかを受けて、恨みつらみに満ちた
応酬を見せられたりすると、これは、被災だ。こっちも、ショックで落ち込む。
大事な友人や家族なら、その被災も引き受けたいものだが、あまり縁の深くない人から
わざわざ、そういうショックを受けるのも、大変だ。
エッセイを読む時の気持ちって、こんな感じかもしれない。
人によっては、演歌のようにどっぷり、とことん付き合う感じのエッセイが好きな人もいるだろうから、
一概には言えないと思いますが。

2008年8月13日

magazine 雑誌

Sometimes it is nice to read magazine.
雑誌を読むのも、結構いいものだ。

I did not have custom to take yearly magazine reading,
but I started to work with magazine and I got chance to get delivered
magazine I worked.
もともと(金銭的な余裕のない青春時代のせいもあって)雑誌の定期購読をする
習慣はなかったのだが、雑誌で仕事をするようになって、掲載誌を受け取るようになった。

Magazine is different from books. It is more relaxed.
I usually read magazine without any expectation, and actually
I got to know several new knowledge or good information.
雑誌というのは、本と違う。もっとリラックスしてる。
読む側もなんらかの目的をかっちり持って読むというよりは、だらだら読む。
そして、実はそういう中から、案外いい情報とか知識が入って来たりする。

Sometimes I read magazine in bath.
お風呂で読むこともある。

The other day, I was reading magazine one editor sent me as sample.
I never read that kind of psycological magazine. An article says "people felt unhappy
when they compare themselves with others." and I really agreed.
Without comparing I never notice I have some lack. I can live without it anyway right now.
先日、旧知の編集の方が異動なさって、そこの雑誌をサンプルで送ってきてくださった。
私は、心の問題をテーマにしたその雑誌を初めて読んだ。そこには、「人は、誰かと比べて、
不安になり、落ち込む」と書いてあった。納得。考えてみれば、人と比べなければ、自分の
足りないものに気付かない。それなしで、今、なんとか生きているのだ。

その他、私は、「かたい雑誌なので、かえさんのやわらかい雰囲気で、、、」という要望を受け、
縁のない、専門誌とかで連載させてもらったりしている。医学雑誌とか、英語教員向け指導研究書みたいなのとか。連載すると、送ってもらえるので、自分が書いたページ以外も読んでみたりする。専門的なことは、本当に違う言語のように難しくて、全く理解できないことが多い。あきらかに、自分の書いた(描いた)ものが浮いているのがわかるが、もともと、そういう目的で依頼を受けたのだから、気にしない。

magazines are made by comercial income. Then they include so much comercial pages.
Woman fashion magazines are heavy like dictionary but cost you just 400yen.
Of course they cannot make 400yen magazine for this colourful thick magazines.
It means other companies paid for you to read this magazines. You should know you are forced to read the information. It happens to many media like TV. We should know we got it free
but we actually got what they want us to get.
雑誌はコマーシャル収入に頼ってるところが大きい。女性誌などはたった400円で辞書のように重い
カラフルなものを作ってくるが、こんなものは400円では作れない。広告をうってる会社がそこを
負担しているのだ。雑誌を読む時は、それがすでに「広告を読まされる」料金込みだと言う事も意識したい。薄い雑誌が結構高くても、それは広告に左右されない雑誌を作ろうという心意気かもしれない。
すべて、メディアは、そういう所がある。ただの物には、すでに「作られた情報量」が添加されてる。
値段だけで、物事は決めちゃいけないな、と思う。

2008年8月11日

baby あかちゃん

On the other day, my friend visited me with her baby.
友人が、赤ちゃんを連れて遊びに来ました。

He could now sit, change his position by himself and he could make sounds.
(He met my dog, O. He was very interested in O. My dog loves baby generally)

I met him several times. First he was 10 days and second he was milk-drinking sleepy baby and third he could recognise song and books and now he could understand Dog!!!
It was so fun to watch baby growing. It was like evolution! Also every baby shows smiles when I praised them so much. It must be pleasant to be praised for human being since this very small people already got happy.
最初は生後10日で、ただひたすら寝ていた赤ちゃんが、会うたびに発達してて、ホント人間ってすごいなあと感心する。今まで結構クールな印象だったが(うちの甥っ子がすごく、執着心の強い、泣き虫やんちゃタイプだったので)、今回は結構、静かな自己主張を感じて、それも感動。「ぼかあ、犬を見るまで、うなるよ」みたいに、自分の願いを着々とかなえていました。ちなみに、褒めたたえると、どこの赤ちゃんも嬉しそうなので、褒められるって、人間にとって気持ちがいいことなんだね。

2008年8月7日

Reader's choice 本を読む

I went to bookstore today.
本屋さんに行きました。

When I chose the book, I always chose same author's books.
I wanted to read all books once I like one author's way of writing.
どうしても、同じ作家さんの本を選んでしまいます。
一度その人の文章が気に入ると、全部読みたくなっちゃうのです。

But it limits my reading experience.
To expand the choice, I asked recommendation to friends.
でも、それでは、なかなか新しい出会いが出来ない。
そこで、友達などに好きな本を聞いてみたりします。

Somebody's favorite books are not always another's favorite.
But I got to read books I never chose and I actually got impressed.
誰かのお気に入りが、必ずしも、他の人も気に入るとは限りません。
でも、自分では選ばないジャンルの本を読んで、とても感動することもあるし、

Sometimes I totally could not get into those books.
And I was still amazed my friends could understand this kind of world.
It is very fun to know the other side of person.
全然、同意できないこともあります。(読み切る事すらできないほど、
何かが自分と合わない)でも、この本を、あの友人は読みきって、
さらに何かをつかんで、感動してるのかと思うと、新たな発見で、
それも、それでいいものです。

2008年8月4日

99

I was checking my old manuscripts I have written so far. Then I found the text titled 99.
My grandmother dies at the age of 99. I was staying at her house for a month to take care of her at the end of her life. My father and his brother and sister had kept visiting for her care for almost 2years. On very last night, she stopped her breath.
After that, we had her funeral. So many people came to say goodbye to her.We noticed how many people loved her so much.
To think over her life, she was just ordinal person with no fame. She was born as the result of unmarried couple's love (they married after grand grand mother's pregnancy) and she married to engineer of ship, had 5 sons and 1 daughter, brought them up under the WW2 and be my grandmother. She is just one of typical nice old woman. However it is not easy to live almost 100 years to be loved like this.
To see her death, I thought about one's life. I know other successful person. But they are not always respected like her. That is the reason why I wanted to write about her at that time.
今までに書いて、放ったらかしにしてあった文章を整理していたら、99という文章が出てきた。
私の祖母は99歳で亡くなった。100歳まであと一歩。残念賞だ。
当時ビザ待ちをしていて日本にいた私は、祖母の最後の1ヶ月を祖母の家で過ごした。そして、段々弱っていき、祖母は息を引き取った。2年近くに渡る父と叔母叔父の介護生活も、終わった。
その後、葬儀が行われた。100歳にも近かったので、祖母の同世代の人々はことごとく、亡くなっていた。にも関わらず、別れを惜しむ人々が葬儀場に押し寄せた。友人の娘さんとか、近所のご一同とか、30歳ぐらい歳が離れた友人とか、、、そして、誰もが祖母の死を悼んだ。最後の10年は自分ひとりで出かけることもできなかったから、連絡も途絶えておかしくなかったと思うのだが、お見事。愛されてたんだな、うちのおばあちゃん。
人の死を見るのは、その人の生き様を見ているんだと、その時感じた。
名もなきただのおばあさんだった祖母。歴史に名を残すこともなかったし、なにか偉業を遂げたわけでもない。でも、確実にその死に際して浮かんだのは、祖母に対する尊敬の気持ちだけだった。だいたい100年間、人に愛されるべき人間であり続けるということは、どれだけ尊いことだろう。
このおばあさんの一生に特記すべき、「女性で初めて飛行機に乗ったマルさん」とかのような、伝記的事実もないし、小説になるようなスリリングなドラマもない。でも、その一生を淡々と述べたとき、私が祖母の葬式で感じたような「ただ頑張って生きていく平凡な人生も、やりきれば、素晴らしいんだなあ」と感じられるのではないだろうか、、、と思った。

I recently see so many terrible crimes. The crimer said that they hate and dissapointed about the world. I believe 100 years was sometimes hopeless for my grandmother,too and she had to go through so many things, but she had lived. Sometimes life seems to be meaningless for anybody, but the answer will come very later. People can live better life by thinking about better death.
最近、とても悲惨な事件を耳にする。事件を起こした人は、この世に、絶望したと言う。そう短絡的に結論を出すものじゃない。(ましてや人の命を奪うなんて、他人の生への敬意も希薄だ)100年の間には、祖母にもやりきれない事や、悲しい事件が数々起きた。でも、彼女は生きた。誰にとっても、人生が無意味に思える時期はあるだろう。でも、結論はずっと後にやってくる。逆説的だが、「よりよく死ぬために、よりよく生きる」ことによって、生きやすくなるのでは、と祖母のことを思い出すと思う。

2008年8月2日

read emotion from text 文章から感情を読み取る

あるカップルが大ゲンカをした。
女性は何通もの手紙やメールで、ていねいに心情を説明したが、どうしても相手にわかってもらえなかった。最後に、、、と思い、顔を見ながら説明したら、「そう言ってくれればいいのに」と一瞬で仲直りできたという。女性は、相手がまったく文章を読解できてなかったのだと気付いた。書いてある事実はわかるのだが、そこに存在する感情が実感できてないようなのだ。「かなしい」と言われれば、かなしいんだなあ、と思う。しかし、それは、言葉の羅列にしか見えてなかったのだ。

文章は難しいなあ、と思うのは、書く方にも、読む方にも、それぞれ力がいる、ということだ。
さらに、トピックが感情となると、ハードルがはね上がる。
例えば、「犬が道いく人にほえた」という事実を書けば、誰しも、犬がほえた事を読み間違えることはない。知識がさらにあれば、「ラブラドール犬が、道を歩いていた検察官に吠えた」という、さらにちょっと専門的な文章が正確に読める。
ところが、個人的になってきたり、内容が抽象的になってきたりすると、知識だけでは読めなくなる。「あなたが私の名前を呼び間違えた時、私はドキリとする程、切なかったんだよ。あれから、ずっとぽっかり心に穴が空いたみたいだった。」とか、「その日、月はまるかった。そう、あの日と同じように。月は私の10年間を見透かしたように、こうこうと私を照らした。」とかなってくると、とても微妙になってくる。
ドキリとか、切ない、とか、あるいは、このちょっと安っぽくもなりそうな言葉をあえて使ってきた心情やら、2人の関係に対する相手側の意識など、自然と読み取ることを迫られる。後者に至っては、月は科学的に言えば、人の過去なんて見透かさない。事実は、月が丸かったことぐらいだ。論理的根拠はゼロ。 でも、そんな気分、というものは存在する。その「なんとなく」を表現しようと、四苦八苦してるのが、そうした抽象的な文章のすべてだ。

この感情読み取り能力、感情ある文章を読んだ経験によって養われる所が大きいように思う。人は、なんとなくを、こんな風にも、あんな風にも、書き並べ立てるのだという事例。そうして、「ふむふむ、このように書かれたものは、自分も感じたことがある、あのなんとなく、のことかしら」という共感体験。次第に、文章から感情が読み取れるようになっていく気がする。そう思うと、たーくさん、感情ある文章を読んだ方が、ちょっとばかし豊かになれそうだ。

2008年8月1日

Translate own story 自作を訳す

This is sample of two colour illustration for middle grade readers.
ちょっと上向けの読者用に、2色の挿絵の例。

I am now trying to translate some of my stories done by Japanese.
I usually wrote in English for English readers and in Japanese for Japanese readers.
Two culture are really different and my brain works differently.
現在、日本語で書いた文章を英訳しています。通常、英文は最初から英文で書くし、日本文は日本語で最初に書きます。二つの言語はとてもちがっていて、私の頭も違う考え方で書いているような気がします。

Readers are different of course. There is difference about taste of each cultures. Some emotions are common for every culture and some expression is not so commont for other culture. Very sensitive, sometimes. Very interesting.Especially reading is such a indivisual activity, it is not easy to discuss how much it goes into their heart.
読者が違えば、それぞれの文化での好みがあります。意外なほど通じることもあれば、ささいなことが伝わらなかったり、とても不思議です。ただ、読書は個人的な体験なので、どこまで心に響いたか、みたいな事を詳しく確かめることは困難。英語で文章を書くとは、自分がどこまで人に伝えているのか、手ごたえを自分で感じられないという、変な感じです。

2008年7月30日

Say "I love you" あいしてるっていってくれ

This is illustration essay I did for Argument.
これは、Argumentという冊子に書いたイラストエッセイです。

American usually wanted to know how to say "I love you" in Japanese. But it is not common for us to say "I love you" in daily life, it sounded different if they use as they usually do in English. I hesitated to teach them.(first column)
Westerners use "I love you" every day between mom and child, brothers and sisters and good friends so on and most loved word.(sefond column)
When my American friend visited Japanese family and he got sake. Japanese asked him "Do you like?" and he answered "sukida"-Japanese macho way of telling love to the woman. Japanese is difficult...(third column)

さて、このように、言葉での表現が控えめな日本人。少々、損をしていると思うのです。100パーセント生まれも育ちも日本人の私ではあるものの、数年間のニューヨーク生活で、「あいしてる」とか「感動した」とか「好き」とか「嫌い」とか、素直に表現することの素晴らしさを実感しました。なぜなら、おいしいものを食べた時に、「こりゃあ、うめーーー」「んだ、うめえな」(なぜ、東北弁?)と言い合ってるとと、おいしさが10倍ぐらいになるのです。好きな人がいるのなら、「好きや」「ホンマ?わたしも」(なぜ、関西弁?)と言い合うと、10倍盛り上がるのです。また、なんか星めぐりが悪いときも、「かー、こまっちまったぜ、てやんでい」(これは、なんだろう、、、)とか言ってると、まあ、結構笑えたりして、、、

Japanese do not express their emotions traditionaly. However we miss something. From experience in NY, I learnt we could enjoy 10 times more to say, "Delicious" "Yeah!" when we eat good food. We will have 10 times excitement by telling "I love you." "me, too" each other. and we can find better point of view by telling bad luck sometimes....

a story a day 一日一話



I wrote very very short story once a year. Originally "I am Tamako, cat" was written for this project.This is from two years ago. the title is "On the moonlight night".The story is:

an old man who got drunk and sang a silly drunker's song on way home. He met racoon mom and kids. Racoon mom was mad about old man's song. She insisted that had bad influence on kid's music sense. Racoon mom said her husband was now in the city to practice opera-that is good music, and kids would practice drams with that music. Old man's good feeling had gone. He minded it afterwards. Old man returned to see what was opera like. Racoon dad was singing laudly. Racoon kids could not beat the dram with opera. Dad gave up. Kids now sang funny drunker song with good dram for fun. Mom and dad was happy to see that. Old man was happy to see that, too.

母の友では、毎年秋に一日一話という短いお話を載せます。私も数回書かせてもらっていて、
「ネコのタマコでございます」も、もとは、このために書かれた、短いお話を発展させたものです。
上のは、おととし書いた、「つきよのばんに」という話です。今年は、「けむしのケムコ」という話が
載る予定です。

Very very short story (in this project, it is within 800 letters to 1200 letters) cannot contain
complicated situation. Especially because this is for very young kids and it is written for listening (parents will read for kids), it cannot contain comlex about time, place, and characters. But limitation causes some different objects. I learnt a lot from this.

短いお話(ここでは800字から1200字)には、入り組んだ物語は作れません。特に、ここでは、小さな子供に親御さんが読んで聞かせてあげる、という目的があるので、音だけで理解できる、という制約があります。時間、場所、登場人物が混乱するのは、よくないでしょう。そういう制約を意識して書く事は、実はとても、勉強になりました。



2008年7月16日

Love story愛情物語

Recently I am thinking of what is the best way of being good partners.
最近、「いい夫婦」て何なのかなあ、と思う。

My friend's dad was very spoiled.
He kept asking for his wife's assistance. Wow, old-fashion Japanese men!
He said that he would die 5 minutes after his wife's death.
He could not have any fun without her. hm...it could be one way of love?
Older couples are as they were.
友人のお父様はとてもワガママで、甘えん坊。
奥様に頼ってばかりで、すごく手がかかるのだそうだ。うーん、これぞ古き日本男児?
そのお父様は、「もし先に奥さんがなくなったら、なんも楽しいことがないので、
その5分後に死ぬことにしている」のだそうだ。それって、やっぱり愛なんだろうなあ。
「この人なしには、生きていけない」て、困ったなあ、て感じだけど、弱い所を完全に
握られてる感じで、まさにこの相手にこの人あり、という感もあり。年配のご夫婦は奥深い。

It is not only for old generations.
My friend's husband shows his pot belly proudly.
My friend asked him,"Do I have to love that belly?"
and he answered, "Why not?"
He has confident to be loved even he shows his worst part of him.
でも、それは古い世代の話だけではない。
私の友人の旦那さんも、出っ張ったお腹を恥ずかしげもなく出し、
「ねえ、そのお腹も好きにならなきゃいけないの?」と聞くと、
「えー、なんで、ダメなのお?」という具合。
愛されてるって自信があるから、みっともない所も丸出しなんでしょうねえ。


My dog shows his belly to show his obey and love to me.
Belly is weakest part of him.
It means "I trust you so I can give you a chance to kill me"
Actually whenever I saw this, I felt really moved.
Do you think this is same theory?
そういえば、うちの犬は、親愛の情を示すために、
お腹丸出し、を大サービスしまくるのですが、それも、
お腹って言う弱点を見せることによって、服従を見せてるわけで、
確かに、「ういヤツよ」と、愛情が湧きますねえ。
おんなじ理論なのかなあ。

Media choose "best couples" every year. But how can we judge from outside?
If they both are spending "OK" life, they are good couple. Probably.
I got older and lost some illusion for love. hahaha.
マスコミが毎年「ベストカップル」とかを決めたりしてるけど、
それは、外見上、うらやましげな夫婦、ではあるんだろうけど、外からは決められないよね。
本人どっちもが「まあまあ」だなあと思って暮らしていられるなら、それはいい夫婦なのかな、
と30代に入って、夢がなくなりました。ははは。

2008年7月6日

cleaning Sunday 大掃除の日曜日


It was very hot Sunday. I finish half of work.
I decided to clean up the studio today.
I removed the carpet for winter. I sweated a lot.
I sometime like this cleaning day-it reset the emotion.
暑い。自由業の私には日曜日は関係ないが、仕事が一区切りついたので、
大掃除をすることにした。冬から使っていたじゅうたんもまるめて収納した。
大汗をかいたけれど、こうして日曜を過ごすのも、悪くない。
何かがリセットしたみたいに、すっきりする。

2008年7月5日

exhibiton open 原画展スタート

Today my exhibition was open. I went there.
It was terribly hot and not so many guest came.
I hope it will be be crowded later.
今日から原画展が始まりました。私も行ってみました。
暑さのせいか、お客さんがあまり来てないみたいでした。
これから、にぎわいますように。








2008年7月3日

hung up 搬入

Today I picked up framed pictures and brought them to bookstore.
13 frames in total.
本日、原画展の搬入、設営をしました。全部で13個のフレームです。

I helped owner to hung up pictures.
それから、店長さんが絵を設置するお手伝いをしました。


He used "Silly pole" to measure the height and distance.
"Silly pole" is the tool that professional decorators use.
Light should not be direcly shooted onto the picture. It should be under picture.
It is also secret of professionals. I become a little bit smarter today.
バカ棒と呼ばれる棒は、プロの設営さんが使う道具だそうです。
こういう業界(?)身内用語っていうのは、だいたい、「バカでも使える」みたいな感じで
ぞんざいな名前がついてる事が多くて、なんか職人さんの照れみたいな、それでいて
プライドみたいなものが感じられて、かわいい名前だと思います。