2020年12月7日

かんころ紀行「受けとる側」 Goto Article


 
今月は、受けとる側の気持ちを、記事にさせてもらった。

 多くの長崎人にとっては、島でかんころ餅を作る側より、こちらの方が身近なのではないだろうか。どこからか、送られてきたかんころ餅を、譲ってもらって、食べていたよ、との話は、あちこちで耳にする。

 離島のカトリック信徒数は減少するばかりだが、言い換えれば、街にそれだけ、人を送り出したということになる。街に出た後は、どんな人生なのだろうか。佐世保の教会は、「島から出てきた人たちが、佐世保で作った」教会が多い。ここに集う人達の背景が気になっていた。

 今回の取材で、みきさんの個人的な心の模索に、共感した。生れ落ちた瞬間から、カトリックの教えの中で育った人達が、先祖の歴史を背負って、成長していく。街中で現代的な考え方に囲まれ、思春期や、さまざまな人生の岐路で、神と近づいたり、遠ざかったりしながら、時に支えられ、時に悩み、自分なりの答えを見つける旅をしているように思う。

 一生とは、「なんのために、生きるのか」を模索すること、と哲学者はいう。わたしは、信仰を持つことは、自由な思索の邪魔になるのでは、と思ってきた。しかし最近、心の真ん中に柱があるからこそ、これは、どうなのだろう?あれは、どうなのだろう?とまっすぐに考え続けられるのかもしれない、と思うようになった。

  かんころ餅が消えゆく存在だと言われて、調べるようになり、これほどまでに、人の思いや、労力や、歴史や文化を背負った食べ物はないと知る。 人の手がかかっているが故に、生き残れないのだとも思う。

 今の世の中、効率的に、生産性高く、ポジティブな生き方が求められている。でも、行き過ぎた効率主義は、心を置き去りにしていく。かんころ餅のような、今、生き残っている文化は、こうした置き去りにされた心に、そっと寄り添ってくれるから、惹かれるのかもしれない。

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