7年前、私はちょうど日本にいて、祖母の最期の週を一緒に過ごす事になった。祖母が息を引き取り、引き続き、お葬式の準備や、親しい人の出入りに立ち会った。その時、祖母が最期の着替えを託していた、祖母の年下の友人が、私を呼んで、「忙しくて、洗濯も出来ないだろうから、おばあちゃんの汚れ物を、袋にしまって奥に隠しておいてあげて。いつも、きちんとしてる人だったし、これから人がたくさん出入りする時に、人目についたら、嫌がるだろうから。」と教えてくれた。
確かに、祖母は、90を越えても、毎日、きちんとはじからはじまで雑巾がけをし、床にホコリひとつ落ちていなかった。祖父の位牌にいたっては、磨き過ぎて字が消えてしまっていた。最期2年ほどはほとんど寝たままになってしまったが、おじは、そんなきれい好きな祖母を、毎日お風呂に入れていたものだ。
私はなまけもので、家の掃除もあまり得意ではない。が、その時、部屋をきれいにすることは大事なんだなあ、と実感し、それを思い出しては反省して、きれいにしようと心がけるようになった。日々の生活をきちんと99年続けるという事は、それだけで、とても貴重なことだし、美しいと思えたからだ。
ということで、何年ぶりかに訪れた祖母の家で、お墓と家の掃除をした。
伯父が普段から手入れをしているので、うちよりきれいだったが、さすがにずっと寒かったので、玄関の水うちはしてなかった。ゴシゴシ洗うと、さっぱりさわやかになり、これから人が出入りすることを思うと、「きれい好きな祖母が、少しは喜ぶかな」と思った。
お寺でお経を上げてもらう。およそ、信心のない私だが、さすがにこうしてると、いろんな事を思い出したり、普段の生活で煩悩だらけであることを、少し反省したりする。たまの法事も、そういう意味で、現代社会に生きる我々には、いいのかもしれないなあ、なんて。
法事の後は、仕出しで乾杯。ほどよく酔っ払って、繰り返される思い出話は、私たちの世代には、新鮮なものが多い。私は、祖母の情報を集めている事もあって、法事に参加したのだが、こういう、おおらかな雰囲気を見ていると、寅さんの世界みたいだなあ、と思う。市井の人たちが、普通に暮らす生活と、その会話の中にこそ、ものがたりは横たわってるんじゃないかなあ、と思う。
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