サディは、想像の世界に生きている女の子。狼に育てられた女の子になる、、、ナノカもあるねえ。服に話しかける、、、ナノカもあるねえ。
女の子の生きてる世界って、こんな感じなんだって、あらためて思い出させてくれる、かわいらしい絵本。この絵本を見て、「ナノカちゃんだ」と思ってくれた友人の気持ちがうれしい。
以前、ナノカが、
「えらいおとなも、自分のぬいぐるみが捨てられたら、気持ちがわかると思う。」
と言った事があった。わたしは、そのことを想像してみたが、ピンと来なかった。
「どうかな?大人になって、子どもみたいに、ぬいぐるみを、大切に思う心がなくなってしまうと、ナノカの気持ちは、わからなくなっちゃうんじゃないかな。おとなにとって、同じように、大切なものが、捨てられて、初めて気持ちがわかるかもね。」
二人で、おとなにとって、同じように大切なものって、なんだろう、て想像してみた。ナノカが、
「パソコン!」
と答えた。それまでの、データが入ったパソコンや、思い出の写真が入ったカメラが、捨てられたら、おとなは許せるだろうか?例え、新品を保険会社から渡されたとしても、子どもの写真や、記録などは、戻らない。めちゃくちゃ怒ってるおとなの顔を想像してしまった(わたしも、めちゃくちゃ、怒るだろう)。
こどもの視点から見れば、ぬいぐるみは、お友達であったり、ペットだったり、生きているに等しい。その価値は、買った時の値段ではない。一緒に過ごしてきた「時間」「思い出」「きもち」だ。
しみじみ、わたし達、おとなは、翼を失った生き物なのだと実感した。 わたし達は、自分たちが、子どもの心を失った大人であると意識しないと、子どもの気持ちなんて理解できないのだ。
子どもは、おとなが自分たちの気持ちをわからないことを、知っている。だから、いっしょに人形で遊ぼう、とは言ってこない。大切なところには、入らせない。
おとなの理屈で、社会が回っているのは、仕方ないことかもしれない。でも、子どもの世界に入り込んできて、おとなが子どもをねじ伏せるのは、ちがう。残念ながら、現実では、たびたび、大人の理屈が優先され、力で、子どもは黙らされる。
わたしも、時々、ナノカが、怒っている姿を見る。なんか、やっちまったのだ。そういう時は、「ごめん、無神経でした」と謝るしかない。子どもは、寛容なので、だいたいの場合、プンプンしながら、「ママは、おとなだから、しかたないね」と許してくれる。 「ごめんなさい」は、大切な儀式。違った価値観を持ち、一緒に暮らしているのだ。大人であれ、子どもであれ、価値観が違っていることで、意図してなかったとしても、相手を傷つける行為に至ったら、やはり、それは、「ごめんなさい」なのだと思う。
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