2022年1月28日

一緒に、読もう read together

  知人と、書籍の話になった。

 以前、デジタルマガジンの発信をしている方とお話しした時に、「デジタルには、デジタルの文章のコツがある」と教わった。流れるようにやってくる読者を、惹きつけ続けないといけない。その一瞬で興味を引くことができないと、数秒後には、すぐにページを去ってしまうからだ。

 ということで、さっと答えを言ってのけたり、すぐに画像を差し入れたり、おもしろコメントを入れてみたり、いろんなテクニックがあると言う。読みやすく、流れるように、後ろへと誘導していく。いわば、サービスのいい文章なのだ。

 かたや、紙の文章は、ちょっとした構築物みたいになっていて、行って戻って、読み直して、、、しっかりと読まれることを前提としているので、骨組み、土台があって、まあまあ、ものものしい。

 デジタルと紙書籍の違いの話なんてされても、新鮮味ないだろうけど、デジタルに優れてる部分と、紙書籍のよい部分があるのは、本を読む人なら理解してることだろう。

 紙書籍のよさは、「サービスの悪さ」にある。それは、文字がただ羅列してあるだけ。言葉という抽象的なものの組み合わせを、読み手は、自分の感覚や体験の中にあるものに照らし合わせて、理解しなくてはいけない。想像力で埋めていく作業だ。

 サービスの悪さゆえに、読み手が入り込む部分を多く残し、深く関わらせる。心の奥まで行く、深い旅をさせる。脳の体力も消耗する。

 紙の書籍を読む人は、年々、減っている。必要性がなくなったからだ。生きていくために必要な情報は、ネットで取ればいい。そんな中で、「やっぱり、紙の書籍を読んでもらいたい!」と願う、旧書籍時代の活字原人たちは、どんな抵抗ができるだろうか。流れを変えるほどのことは、なにもできない。

 されど、なんにも、やらないのは、どうなんだろう。

 ということで、「なんか、しましょう」と話して、終わった。

「コロナ収まったら、なんかするぞと、原人が、腕まくりする、昼下がりかな」

わが家は、それぞれが読み聞かせをして、みんなで一緒に本を読む習慣があります。これは、今、相方が読んでくれている時代小説。なかなかに、ハードボイルド。

戦国時代の話なので、大河ドラマで見た「明智光秀」とか、わたしが追いかけている「潜伏キリシタン」とか、先日訪れた足立美術館で見た「姿絵」とか、名護屋城とか出てきます。いろんな体験が、本の中で結びつくって、とても、心地よい。


2022年1月19日

文を書こう Writing

 小学4年生は、勉強することがいっぱい。1、2週間ごとに、国語も算数も新しい単元に入れ替わる。どんどん異なった概念が出てきて、手ごわい。こうした勉強を親が教えようと思ったら大変なので、学校で教わってきてくれて助かる。子どもの成長を見ていると、わたしも、大方の基本を小学校で身につけてもらったんだな、と実感する。

 現在ナノカが、学校で好きな課題は、「パンフレットを作る」「本のポップを作る」「プレゼン資料を作る」などの、文章を組み立てる作業だ。楽しそうに、パソコンで調べたり、本から抜粋したりしている。

 先日、「彼杵川の歴史を調べたい」と言われた時は、ネット上でそうした記述を見つけられなかったので、二人で学校帰りに、図書館に行った。彼杵町図書館には、川についてまとめられた資料はなく、「水と緑と土と」という漬物石級の重さの郷土資料から、彼杵川の記述を二人で探して、抜粋することにした。なかなか、大変な作業だったけれど、「ものすごく、楽しかった」らしい。

 ネットの世界は、網羅している分野に、限り・偏りがある。学校では、タブレットでの検索の仕方を覚えてもらうために、ネットを利用することが多いようだが、それだけでは、一般知識以上のものは得られない。いつか、きちんとした文章を書くようになった時には、本や資料室などで、専門的な知識に踏み込む必要が出てくる。

 学校に、学習のほとんどはお任せしているけれど、もし、小学生のプラスアルファを手伝ってあげられるとしたら、そういう「導入」であろうか(図書館に、そういう手ほどきがしてもらえたら、よいなあ)

 そういえば、ホモサピエンスがネアンデルタール人を追いやって、生き延びたのは、喉の位置が違うため、明瞭な発音ができて、言葉による意思疎通ができたからだと聞いたことがある。言葉は、脳内にある情報を人とやり取りしようという、努力の賜物なのだと思った。

 言葉は人によって捉え方に差があるため、内容が複雑になると、間違いなく伝わるようにと、さらに神経を遣う。正確に自分を伝える言葉を模索し、その中から、思想や物語の傑作が生まれていった。ちょっと発音が良かっただけのホモサピエンスが、ここまで発展していったと思うと、すごい!

 でも、そうして努力の末に紡ぎあげられた言葉が、受け止められるとは限らない。言葉足らずなケースだけではなく、相手が受け入れたくなかった場合にも、届かないで終わることがある。

 言葉は、人と人の間に横たわる、あいまいな事実や考えを、明確にしてくれるが、かえってそのことで、反発を食らったり、炎上したりすることがある。相手がハッピーになるような内容のみを綴れば、反感を避けることはできるのだが、それだけでは、言葉は、役割を果たせない。文章を書いた人間が間違ってるのではなく、現実が受け入れがたいのだが、発信者がうらまれる。文章を仕事にするということは、そういう事と隣り合わせだ。

 ナノカが、「いつか、文章を書く仕事もしてみたい」と言い出した。なにか、お手伝いをできないかと思って、日記帳をプレゼントした。ナノカの日記は、人に読み上げて聞かせられるほど、外向けの文章だ。子どもの言葉は、簡潔で、さわやかで、そして、本質を突いてくる。

 これが、社会への疑問となった時、まっすぐな言葉を、大人は受け止める覚悟があるんだろうか?一抹の不安を感じながらも、その気持ちを大切に育ててやりたいとも思う。

 美しい文章をつづった、世界中の先人たちに習い、その末席で、母も子も、言葉を紡ぐ。言葉が、きっと、人をつなげてくれものだと信じて。

2022年1月14日

皿洗いバイト earning money

 

 一昨年、サンタさんに頼むプレゼントに迷って、第2希望の「新しいリュック」を自力で買うことにしたナノカ。皿洗いをまるまる1日分500円として、5000円稼ぎ、見事、リュックを手に入れた。

 今年の冬休みも、お金の話になったので、「去年と同じように、皿洗いのアルバイトしてもらってもいいよ」と言うと、「やりたい!」と言う。ところが、休みが始まっても、遊びに宿題にと、大忙し。 皿を洗う様子はなかった。

 あと冬休みも数日となってから、「皿洗い、やろうかな」と言いだす。そこから2日間、がんばって、1000円を稼いだ。

 冬休みが終わり、朝や昼のお皿洗いはできなくなった。現在、1食分150円でのお皿洗い契約となっている。

 鉄製のフライパン、ご飯を炊いた鍋、ちょっとお高いお皿。扱い方を教え、一つずつ、片付けられるようになった。

 お金がかかっているので、きちんとしようと思うのだろう。普段、お手伝いをしてもらう時には、やり方を教えようとすると、ダメだしをされたと思って、へそを曲げてしまうこともあるのに、妙に素直だ。一気に、片付け上手になった。

 お金の扱いに関しては、家庭によって、マチマチの考えがある。ナノカのお友達は、先日、お小遣いを1年分、まとめてもらっていた。一月500円で、6000円だ。1年で、それを計画的に使うなんて、大人でも、難しい。チャレンジだなあと思うが、やりきれたら、自信がつきそうだ。

 子どものお手伝いに、お金を渡すことに対し、否定的な文を読んだことがある。それをすると、金銭でしか働かなくなる、と書いてあった。逆に、お小遣いを定期的にあげると、社畜になると書いてあった本もあった。なんだか、子どもにお金を渡すのが、恐ろしくなってしまう。

 でも、人生は、お金との付き合いを避けては通れない。触らないまま、大人になって、突然、やりくりするのは、大変。渡し方は、それぞれの考え方があるだろうけど、お金とのお付き合いは、段階を追って、必要だと思う。

 お金のない世の中を目指す思想も見かけるけど、しばらくは、生きていくのにお金が必要そうだ。それに、万が一、貨幣がなくなった世の中が来たとしても、社会に貢献し、そのことで、自分も社会から報酬を得て、生きて行くというスタンスは、変わらないのではないか。そもそも、きちんと、分配がなされていたら、貨幣でも、物々交換でも、いいように思う。結局、必要なものを、必要なだけ受け取って生きて行くことを、わたし達はできていないのだろう。

 縄文時代から、弥生時代に移った時、米を得て、安定した食生活で、人は幸せになるかと思いきや、即刻、身分ができて、戦争が始まった。縄文や弥生文化が好きなナノカに引きずられて博物館に行くと、その話のところで、考えてしまう。弥生時代の遺跡になると、一気に鉄製の武器が、ずらりと並ぶ。

 その時から、ずっと、人は奪うことで、豊かになり、権力を得る、という構図を繰り返してきたんだろう。そう思うと、人間の歴史が、重たく感じる。問題は、お金じゃない。搾取なんだと思う。

 スマホ脳を読んだ。今の人間の脳は、生き延びられた人間たちの脳だ。より多くの食べ物を、欲張って食べる人間の方が、今日の分だけ食べる人間より、生き延びる確率が高かった。それが、過食の原因。長いサバイバルの歴史の中で染み付いた脳の傾向は、今の社会に合っていないかもしれない。SDGsじゃない、わたし達の脳みそ。

 子どもに、お金を触らせるのは、うまく社会を動かす人になって欲しいという希望をこめて。 稼ぐことは、悪くない。使うことも、悪くない。たくさん稼いで、うまく使ったらいいと思う。たくさんの体験を通して、お金の特性を理解して、社会を体感して、広い視点を持って、生きていっておくれ。

2022年1月11日

あたらしい年に New Year Girl

今日から、新学期です。元気に、登校していきました。



 学校が始まるまで、毎朝、一緒に散歩していました。

 氏神様にも初詣に行き、冷たい空気の中、水鳥を見たり、焼きたてパンを買いに行ったり、ゆとりある日常を、楽しみました。散歩が終わると、花を摘んだり、友達と秘密基地を作ったり、日常の細々を、愛するように、幸せそうに、生活していました。

 さて、公立の小学校に戻って、2学期間が終わりました。転校当初は、宿題に追われること、評価を常に意識しなくてはいけないことなど、いろいろ、心配していました。真面目な性分なので、「ねばならない」に、がんじがらめになるのではないかと思ったのです。

 そんな中、2学期の通知表を読んで、 じーんときました。

 そこには、毎朝、ボランティアで落ち葉掃きをしていたことが書かれていました。ナノカから聞いていたので、落ち葉掃きをしていることは知ってたのですが、それを先生が、「創意工夫をし」「時に、仲間に指示を出し」と、とても細かく、見てくれていたからです。

 なぜ、落ち葉掃きをするか、ナノカに前に聞いたことがあります。「気持ちいいんだよ」「無になれるから」と答えていました。見返りを求めず、自分の気持ちだけで完結してることに、尊いなあ、と思ったのを覚えています。だから、評価されなくても、まったく、気にしなかったと思います。

 ただ、彼女の落ち葉掃きの様子を見ていてもらえたことを知って、深い安堵感を覚えました。彼女が持つ、さまざまな特性を肯定してもらった気持ちになったからです。

 人の特性は、ある面では、長所にもなるし、短所にもなる。親から見れば、よいところに見えても、所属する社会から喜ばれるものばかりではありません。

 娘が前の学校を、断ち切るようにに辞めてしまったことは、本人にとって、社会から拒絶されたような体験だったと思います。親にも、回避できなかった責任があります。

 人が、「やさしさ」「ただしさ」だと思ってしたことは、ある社会では、肯定されるものではなかった。そうした体験は、人の生きる力を根本から、危うくしてしまいます。そのまま、自信を失いかねない、とても、繊細な時期だったと思いますが、その答えは、新しい社会で、どう評価されるかにかかっていて、親には、どうすることもできません。親は、庇護者ではあるけれど、社会ではないからです。

 無事、新しい社会の中で、自分の役割を見つけ、評価を受けたことで、彼女は、また、元気にあふれた1年を、迎えることができました。

 評価をつけることは、難しい。そして、評価を受ければ、人は一喜一憂してしまうもの。いっそ、要らないのでは?とも思っていました。でも、こんなに、人を支えてくれる評価というものもあるのだと知り、考えを改めました。

 校庭の落ち葉は、すっかり落ちきって、落ち葉掃きは終わりました。新しい1年が始まります。