朝は、毎日、ラジオを聴いている。昨日は、リケジョの話をしていた。なぜ、日本の女子は、理系の学部に進まないか問題についてだ。
その話によると、日本の中学生、高校生の女子の理系科目(数学、理科)は、世界でもほぼトップの成績なのだそう。なのに、大学で理系学部に進む女子は10パーセント台とか(専攻によるが)。
ここ1年、ナノカが、「自分は、算数が一番、得意」だと言い張り、将来の夢は、科学者だと言い張るので、「そうなんですね」と言って、うなづくようにしている。しかし、本当のところ、わたしも、どこかで信じてない気がする。なぜなら、わたしには、彼女に数学的な圧倒的ひらめきがあるように、見えないからだ。
自分が高校生の時に味わった、数学的、理系的壁の高さを、彼女の将来に投影しちゃってるのかもしれない。
高校生の時、自分が理解できないスピードと感覚で、数学や物理を解く人々の存在を知った。そして、脳の構造の違いを感じた。わが脳みそは、そうした分野が不向きだという実感がある。
さて、ナノカにくわしく聞くと、算数の「仕組みやルールがあって、答えが一つあるところが、好き」だと言う。
それを聞いて、なるほどな、と思った。わたしは、数字の羅列に、なんのロマンも感じなかったので、小学校の計算問題は、ひたすらに苦痛でしかなかった。小豆の選別の方が、まだロマンがあった気がする。
案外、この人は、数学の美しさの本質に、惹かれてるのかもしれない。昔、数学者の人と雑談をした時に、「数学は、美しい」という話をしていた。割り切れる定理の世界を、まぶしそうに語っていたのを思い出す。
脳がスーパーコンピュータのように起動しなくても、数学の持つ美しい規則性や、科学への探究心、自然の法則への興味などがあれば、道が開かれているべきなのかもしれない。しかし、現実社会では、世界で見たら「結構、理系科目もイケてる」はずの日本の女子学生は、理系の専攻を希望しない。
アメリカの女子高生が、「興味あるから、大学は生物専攻にした」と、さらっと言いのけていて、驚いたことがある。彼女は、日本の理系の高校生より、数学や科学をやりこんでいないと感じたが、彼らにとって、そこは、これから学ぶべき世界なのだ。優秀な学生は、自分の好きな専攻を、もっと自由に選択していた。
わたしは、苦手な分野で苦労するより、その人が一番、得意な分野で活躍した方がいいと思ってきたが、それも、なにかに縛られた考えなのかもしれない。追求していきたいと思える分野が別にあるなら、努力で克服しながら、一番の得意とはいえない学問を学ぶことが、あっていいのではないか。
結局、偏差値や点数で評価し過ぎなのだと思った。理系、文系を分けていくことも、その人が持つ学力を、円形グラフでデータ化して、そのデータで得られる、最良の選択をさせようとしているように感じる。
データごとに、人材を割り振っていけば、似たような傾向のある人間が、同じ専攻に集まる。効率よく、優秀な生徒を集められるように見えるが、研究のアプローチの方法は、変化しないままかもしれない。数学的天才から生まれる発想と、より複合的な視点を持つ人間の発想では、見つけるものが違う。そもそも、本人の情熱は、どうなのだろう?余裕がないので、一定レベル以上の秀才だけが欲しいと研究室が言うのなら、そういう方針の国なのだと思うしかないが。
多様性と言うけれど、そもそも、社会におけるすべてのケースで、「このレベルの人だけ、集まってください」の設定が、細かすぎる気がする。
こどもは、まだ、開けた平原に立っている。これから、多くの冒険や発見をし、歩く方向を決めていったらいい。母は、あまり、詳しくない分野も多いけれど、アテンドをできるところはして、できない場所へは、他の大人や仲間と、世界を広げていったらいい。あなたは、考えて、感じて、発見する「ヒト」なのだ。
本の中の冒険者のように、今を旅していく。それは、楽しみな物語。
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