11月の記事です。
「えん」とは、取材を始めて、半年経った頃に出会いました。当時は、第1期生の山村留学生が一人、小野さん一家と生活していました。
今は、3人の留学生がいます。都会からやってきた子ども達は、めいいっぱい自然の中で、体験を積んで、過ごしています。
そんな「えん」に、私から、何年か前に、「かんころ餅を、作ってみませんか?」と提案しました。当時、かんころ餅の品評会を上五島でやってみたいという構想があって、普段、作っている「かんころ餅名人」に加えて、業者さん、そして、学校や、いろんな団体がチャレンジしたら、とても、盛り上がると思ったのです。
そのかんころ餅の品評会を大々的にやることは、叶わなかったのですが、「えん」のおかみさん、千鶴さんは、提案を受け入れて、その年は、実家で作ってもらったサツマイモから、カンコロ切りを、そして、今年は、サツマイモともち米も栽培して、えんのかんころ餅、を完成させてくれました。
千鶴さんは、島育ちで、お祖母さんが実際、かんころ餅を作ってはいましたが、それは子どもの頃の記憶で、試行錯誤の中でのチャレンジとなりました。
今年の出来栄えは、私から見れば、本当に美味しくて、素朴さがたまりませんでしたが、千鶴さんは、「来年は、もっと、なめらかに!」と、ああしよう、こうしようと、次への意欲を語ってくれました。
わたしにとって、かんころ餅を絵本にすることは、ひとつのゴールでした。それは、まず、知ってもらう事から、始まると思ったからです。「こんな、事実があります」「みなさんは、どう思われますか?」「どんな未来を、作りたいですか?」という疑問提議でした。
かんころ餅や教会の歴史と現在、そして未来はどうなる可能性があるか、を描いたものですが、それが、人間の「生き方」への疑問定義だと、感じ取っていただけたと思います。人は、こうやって生き延びてきた。そして、時代は、変化し続ける。その中で、文化は、どうなっていうのか。
さて、絵本ができあがって、質問は投げかけられたわけですが、その答えは、それぞれにあるのだと思います。
「いえ、わたしは、かんころ餅がなくなっても、しかたないと思います。」も一つです。 実は、わたしも、便利さを押しのけて、このままの形態で文化を繋いでいくことは、かなり難しいことだと感じています。
うちの娘は、かんころ餅の危機を知った、年長さんの時、「わたしが、カンコロ農家になる!」と宣言していました。それも、1つの答えではあるのですが、現実的には、カンコロを生産して、生計を立てるのは、とても難しいと言えます。手間が莫大にかかるのに、収益が上がらないからです。経済的な側面からいくと、効率が悪い、ということです。
そんな中、えんが、こうしてかんころ餅を実際に、すべて手作りして、子ども達の記憶に残してくれることは、また、ひとつの答えだと思います。
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