アンチエイジング医療の体験ルポを引き受けた(婦人公論で10月に掲載予定。また、発売時期にお知らせします)ということで、今週は最新の予防医学を受けさせてもらい、「とにかく、健康にゆっくり年をとる、て大事だな」と感じさせられた。
I had assignment of report about latest anti-aging health care from woman magazine and I took two medical care for anti-aging.
年の取り方は、本当に個人差がある。まだ中年と言えるような年齢でも、体中にトラブルを抱えて、大変な人もいれば、90歳でもかくしゃくと、現役な人もいる。私の父方の祖母は99歳まで生きたのだが、その末の妹(80歳)に法事で会ったら、駆け足で車を追いかけて見送っていた。フットワークが軽い!沖縄の人は遺伝的に長生きが多いと言われるが、祖母の姉妹もみな長生きだった。年の取り方がゆっくりしていて、そもそものエネルギー量が違うのじゃないか、と見ていても思う。寿命って、遺伝である程度、決められてしまってるのだろうか?
As for age, I think the speed to get aged depends pretty much on individuals. Some middle age people get so much physical problem all over the body, on the other hand some 90 something people are still active. My grandmother in my father's side lived until 99. I met her youngest sister who was 80 at that time, and she ran after cars to see off everytime somebody left-very energetic and young. All my grandmother's sisters (they were 5 of them) live up over 90. I heard that people in Okinawa has gene to live long. Is the life length depending on our genes?
一方で、生活習慣も大きいのだと思う。祖母は、90を越えて倒れるまでは、現役で家事をこなしていた。今のように「適度な運動しなさい」とか、「これを食べろ、これを食べるな」などの科学的な知識が全くなかったので、特に何もしてなかったが、思い出すと、ゆっくり、マイペースで常に体を動かしていた。
It is also up to the way of life style. My grandmother done all house keeping all by herself until 90-she got heart attack. She did not know any scientific knowledge about "do proper exercise" "eat this, not eat that" things, but remembering of her, she always keep moving in her pace.
まめに、料理もしていた。私も小さな頃に、板間に座って、一緒に野菜の皮むきなんかをした記憶がある。庭の手入れもしていた。そして、疲れると昼寝をしていた。
She is cooking every day. I accompanied her to sit down on the kitchen floor and peel the vegetable skins. She kept garden nicely. Then she had nap when she felt tired.
広い家を、毎日、かたっぱしから床磨きをしていた。床掃除をすると私もびっくりするのだが、汗をかいて、あんがいいい運動になる。昔の人が丈夫だったのは、日々の生活で、筋肉を使い、足腰が丈夫になり、血流がよくなっていたからなのだろう。
She scrubbed the floor of house from this end to the other end every day. It is actually good exercise I notice. The reason why old time people are healthier is they use their muscles daily life, never allow their feet waken and keep their blood circulation normal.
予防医療の話を聞くと、ほとんどのものが、「血流をよくする」「冷えを治して、免疫をあげる」という基本のようだ。そのことによって、もともと持っている、人間の自然治癒力を高い状態に保ち、いろいろな病気に打ち勝っているのだ。高額な「アンチエイジング医療」を受けられる人は少ないと思うが、日々の生活で同じような効果を持つ暮らし方を心がければ、お金がかからないでアンチエイジングができる。そして、長生きだった祖母の時代の暮らし方は、結局、理想的だったのかな、と思った。日本人が昔、長生きだったのは、「不便だった」からなのかもしれない。クリニックの先生が言ってた一言が印象深い。「体は、使わない機能から、働かなくなっていく」ちょっとした、負担を体にかけ続ける事が、大事なのかもしれない。
Wherever I go to hear the anti-aging medicare, the doctors told me that the key word is "to keep blood circulation smooth" "to avoid low fever, activate the immune system. " As a result we
increase the natural ability to defeat every kinds of disease or virus. It is not easy for everybody to pay for the expensive anti-aging medication , but it is worth same to keep health by caring their own body in every day life for free. My grandmother's way of life is a kind of model for cheap long healthy life. It can be because they did not have much and their life was not convenient as ours. One doctor said the interesting things: "the function that people do not use is going to retard." It could be important to keep stressing on the body.
2010年8月27日
2010年8月26日
swimming women アンチエイジングスイミング
ニューヨークに、アーティストビザで戻った後、近所のスポーツクラブの会員になった。その時、「水泳って体にいいんだなあ」と実感し た事があって、今も、「なにか運動を」と思うと、すぐ「泳がねば」と思う。
I used to smim in NY. At that time, I noticed how good exercise it is and I feel I shold swim when I thought about exercise all the time.
その頃、近所の「Sammyさん」というデザイナーをしている中国系アメリカ人女性と、親しくしていた。ある 日、彼女が、「私、何歳だと思う?」と聞いてきた。少しだけ年上かな、と思って、「35歳ぐらい?」と私が言うと、「私ね、50越えてるの」と答えが返っ てきた。びっくりした。若作りな年配女性はたまに知り合う事もあるし、きれいだなあ、と感心する事も多いが、なんとなく年齢はわかるものだ。(努力して若さをキープしてることは、尊敬する)だが、Sammyさんは、ほとんど化粧もせず、特に高そうなオシャレな服も着ていなかった。カジュアルにしているのに、肌のはりとか、ボディラインに、全く年齢がにじみ出てなかったのだ。よく見ると、髪の毛に白髪が少し混じっていたが、それでも年がいってるように見えないのだか ら、すごい!としか思えなかった。
彼女に秘訣を聞くと、「私、若い頃から、ずっと週に2、3回は泳いでるの。それだけかな あ。」と。特に私の目がとまったのは、彼女の足のきれいさだった。正直、美人というより、庶民派な顔立ちだったが、その足は、均整の取れたちょうどいい肉が全体について、締まる所はきれいに引き締まっていて、ミニスカートとサンダルが、とてもよく似合っていた。体型に気をつかってる年上女性でも、なんとなく筋っぽいもので、足というのも、年齢が出る場所だと思い込んでいたので、驚きだった。
女性は、顔周りを非常に気にするが、実は、全体の雰囲気で、男性は見てるようだ。足がきれいなのは、恋愛現役で居続けるための、Sammyさんの武器、という感じで、彼女と公園などで待ち合わせすると、ナンパされてて、話し込んでいた。Sammyさんの方も、セックスアンドシティのサマンサばりに、「男性ウェルカム」だったので、その次の週にバッタリ街で会うと、公園ナンパ男とデート中だったりして、「すごいなあ」という感じだった。
Sammyさんは、本当にサマンサばりの肉食系だったので、一緒に行った講演会の講師と、いつの間にかつき合ってたり、そういう自分の恋愛依存体質を悩んで通い始めたグループワークで、同じように恋愛依存症の男性に興味を持ったり(本末転倒)、とにかく、私生活がすごかった。一度、私が引っ越しをする時に、「盗まれないように、付き添ってあげる」と来てくれたのは嬉しかったのだけど、「うわ、この引っ越し業者、いい男ばっかり。うーん、彼はまだ20代ね。ちょっと若過ぎるから、かえにちょうどいいわ。私は、あの運転手のおじさんでも、いいかな。」と名刺をもらってたのは、閉口した。引っ越しの手伝いにきてくれたんじゃなかったの?と。そういう50歳になりたいかはともかくとして、水泳は、アンチエイジングに効果のある運動だという事は、頭にインプットされた。なにはともあれ、健康に、内面から、若さを保つのは、いいことだもんね。
I used to smim in NY. At that time, I noticed how good exercise it is and I feel I shold swim when I thought about exercise all the time.
その頃、近所の「Sammyさん」というデザイナーをしている中国系アメリカ人女性と、親しくしていた。ある 日、彼女が、「私、何歳だと思う?」と聞いてきた。少しだけ年上かな、と思って、「35歳ぐらい?」と私が言うと、「私ね、50越えてるの」と答えが返っ てきた。びっくりした。若作りな年配女性はたまに知り合う事もあるし、きれいだなあ、と感心する事も多いが、なんとなく年齢はわかるものだ。(努力して若さをキープしてることは、尊敬する)だが、Sammyさんは、ほとんど化粧もせず、特に高そうなオシャレな服も着ていなかった。カジュアルにしているのに、肌のはりとか、ボディラインに、全く年齢がにじみ出てなかったのだ。よく見ると、髪の毛に白髪が少し混じっていたが、それでも年がいってるように見えないのだか ら、すごい!としか思えなかった。
彼女に秘訣を聞くと、「私、若い頃から、ずっと週に2、3回は泳いでるの。それだけかな あ。」と。特に私の目がとまったのは、彼女の足のきれいさだった。正直、美人というより、庶民派な顔立ちだったが、その足は、均整の取れたちょうどいい肉が全体について、締まる所はきれいに引き締まっていて、ミニスカートとサンダルが、とてもよく似合っていた。体型に気をつかってる年上女性でも、なんとなく筋っぽいもので、足というのも、年齢が出る場所だと思い込んでいたので、驚きだった。
女性は、顔周りを非常に気にするが、実は、全体の雰囲気で、男性は見てるようだ。足がきれいなのは、恋愛現役で居続けるための、Sammyさんの武器、という感じで、彼女と公園などで待ち合わせすると、ナンパされてて、話し込んでいた。Sammyさんの方も、セックスアンドシティのサマンサばりに、「男性ウェルカム」だったので、その次の週にバッタリ街で会うと、公園ナンパ男とデート中だったりして、「すごいなあ」という感じだった。
Sammyさんは、本当にサマンサばりの肉食系だったので、一緒に行った講演会の講師と、いつの間にかつき合ってたり、そういう自分の恋愛依存体質を悩んで通い始めたグループワークで、同じように恋愛依存症の男性に興味を持ったり(本末転倒)、とにかく、私生活がすごかった。一度、私が引っ越しをする時に、「盗まれないように、付き添ってあげる」と来てくれたのは嬉しかったのだけど、「うわ、この引っ越し業者、いい男ばっかり。うーん、彼はまだ20代ね。ちょっと若過ぎるから、かえにちょうどいいわ。私は、あの運転手のおじさんでも、いいかな。」と名刺をもらってたのは、閉口した。引っ越しの手伝いにきてくれたんじゃなかったの?と。そういう50歳になりたいかはともかくとして、水泳は、アンチエイジングに効果のある運動だという事は、頭にインプットされた。なにはともあれ、健康に、内面から、若さを保つのは、いいことだもんね。
2010年8月25日
swimming 泳ぐ
4年ぶりに泳ぎ始めた。4年前にニューヨークで体調を崩すまでは、週に3回ほど1キロずつ流していて、体にいい運動だとも実感していたが、一たび体調を崩すと、強い塩素と、冷たい水はなかなか、体にきつい。4年もブランクがあるから、ゼーハーになって泳げないんじゃないかと思ったが、思ったより、平気で元に戻った。
I started to swim after 4 years blank. I had been swimming 3 times a week , 1 kilometer, until 4 years ago-when I was down psychically. Once I was down, the chemical and cold water was hard for me. I was afraid 4 years blank but I swam OK.
私は、残念なぐらい運動神経が悪い事に、大人になってから気づいた(ラッキーな事に、子供の頃は、気づかなかったのだ)。ただ、運動神経の鈍さを、根性と体力でカバーしてきたから、黙々と続ける事だけは得意なようで、泳ぐ、ただ走る、ただ歩き続ける、などの体力系のスポーツだけは、楽しむ事ができる。
I am not good at sport at all generally (Fortunately I did not notice it until I became adult) Technically I am terrible, but I have enegy to keep swimming, running and walking.
私が育った地方では、当時「部活はしなくてはいけない、小中学生の義務」ぐらいの雰囲気に囲まれていた。なので、8割ぐらいの子供は、運動系の部活に所属していた。とはいえ、子供の頃は遊んでる延長だから、「おや、私はがんばってるわりに、あんまり、上達しないなあ」ぐらいにしか思わず、運動神経の鈍さに気づかなかった(周りも、寛容だったのだろう)。が、昨年、友人主催の「バトミントン大会、男女混合ダブルス、トーナメント大会」に参加して、愕然とした。羽が相手コートまで飛ばない。目の前に飛んできた羽を空振りする。くじで私と当たってしまった、気の毒なパートナーに、申し訳なくて、がっくりだった。うすうす、自分は鈍いとは思っていたが、ゲームにならないぐらいだとすると、こういうイベントに参加するのも、気が重くなる。
In my hometown, they thought that kids had to do some sports after the class. It was still a part of playing and I did not take it seriously about my not development even after training. I noticed recently by joining badminton cup invited by my friend. I could not hit the shuttle and my shuttle did not reach the defender's coat. I felt sorry for my partner.
そういえば、ボーリングでも、100を越える事も、まれである。ボーリングなら、個人競技だから、一人で自滅していればいいんだけど、、、誰かが「ペアで戦おう」なんて、言ったらどうしよう、と怯えてしまう。せっかくのスペアのチャンスを、がっつりガーターまっすぐに投げ込んで、盛り下がる事、間違いないのだ。
I could not score over 100 in bowling. It is fine to do by my self, but if somebody said "Let's do group games" I will be so afraid to distroy the games.
大学時代に一度、ゴルフを、集団で体験したことがあった。開けた場所で、打ちっぱなしをしただけだけど、私のクラブには、ボールがかすりもしない。いつまでも、同じ場所で、素振りもどきを続ける自分に、「世の中には、こんなに難しいスポーツがあるのか」とすら思った。自分でも、これは、練習すれば上達する、ていうレベルのものではないな、、、という感触ぐらいはわかるのだ。
I played golf once. My club never hit the ball. I standed at one place to swing the club forever. "this is the hardest sports" I thougt. I could feel that I won't make progress after some training from this first trial.
とくに、ゲーム性のあるスポーツで、みんなと競争しなくちゃいけないのは、気が重い。負けず嫌いなのではなく、びりになるのはまったく構わないのだが、あまりにできないと、みんなが気を遣うし、盛り下がってしまう。申し訳なさに、落ち込むのだ。ということで、「ひたすら、泳ぐ」みたいな「ひたすら、、、」系は、多分唯一自分に向いているスポーツなんだと思う。泳げるぐらい健康になって、本当に、うれしい。
I feel scared to game sports. I am OK about being lost, but my being bad at sports destroy the atmosphere of people. For me, to keep doing forever such as swim forever, is the best sports. I am very happy to be fine to swim again.
I started to swim after 4 years blank. I had been swimming 3 times a week , 1 kilometer, until 4 years ago-when I was down psychically. Once I was down, the chemical and cold water was hard for me. I was afraid 4 years blank but I swam OK.
私は、残念なぐらい運動神経が悪い事に、大人になってから気づいた(ラッキーな事に、子供の頃は、気づかなかったのだ)。ただ、運動神経の鈍さを、根性と体力でカバーしてきたから、黙々と続ける事だけは得意なようで、泳ぐ、ただ走る、ただ歩き続ける、などの体力系のスポーツだけは、楽しむ事ができる。
I am not good at sport at all generally (Fortunately I did not notice it until I became adult) Technically I am terrible, but I have enegy to keep swimming, running and walking.
私が育った地方では、当時「部活はしなくてはいけない、小中学生の義務」ぐらいの雰囲気に囲まれていた。なので、8割ぐらいの子供は、運動系の部活に所属していた。とはいえ、子供の頃は遊んでる延長だから、「おや、私はがんばってるわりに、あんまり、上達しないなあ」ぐらいにしか思わず、運動神経の鈍さに気づかなかった(周りも、寛容だったのだろう)。が、昨年、友人主催の「バトミントン大会、男女混合ダブルス、トーナメント大会」に参加して、愕然とした。羽が相手コートまで飛ばない。目の前に飛んできた羽を空振りする。くじで私と当たってしまった、気の毒なパートナーに、申し訳なくて、がっくりだった。うすうす、自分は鈍いとは思っていたが、ゲームにならないぐらいだとすると、こういうイベントに参加するのも、気が重くなる。
In my hometown, they thought that kids had to do some sports after the class. It was still a part of playing and I did not take it seriously about my not development even after training. I noticed recently by joining badminton cup invited by my friend. I could not hit the shuttle and my shuttle did not reach the defender's coat. I felt sorry for my partner.
そういえば、ボーリングでも、100を越える事も、まれである。ボーリングなら、個人競技だから、一人で自滅していればいいんだけど、、、誰かが「ペアで戦おう」なんて、言ったらどうしよう、と怯えてしまう。せっかくのスペアのチャンスを、がっつりガーターまっすぐに投げ込んで、盛り下がる事、間違いないのだ。
I could not score over 100 in bowling. It is fine to do by my self, but if somebody said "Let's do group games" I will be so afraid to distroy the games.
大学時代に一度、ゴルフを、集団で体験したことがあった。開けた場所で、打ちっぱなしをしただけだけど、私のクラブには、ボールがかすりもしない。いつまでも、同じ場所で、素振りもどきを続ける自分に、「世の中には、こんなに難しいスポーツがあるのか」とすら思った。自分でも、これは、練習すれば上達する、ていうレベルのものではないな、、、という感触ぐらいはわかるのだ。
I played golf once. My club never hit the ball. I standed at one place to swing the club forever. "this is the hardest sports" I thougt. I could feel that I won't make progress after some training from this first trial.
とくに、ゲーム性のあるスポーツで、みんなと競争しなくちゃいけないのは、気が重い。負けず嫌いなのではなく、びりになるのはまったく構わないのだが、あまりにできないと、みんなが気を遣うし、盛り下がってしまう。申し訳なさに、落ち込むのだ。ということで、「ひたすら、泳ぐ」みたいな「ひたすら、、、」系は、多分唯一自分に向いているスポーツなんだと思う。泳げるぐらい健康になって、本当に、うれしい。
I feel scared to game sports. I am OK about being lost, but my being bad at sports destroy the atmosphere of people. For me, to keep doing forever such as swim forever, is the best sports. I am very happy to be fine to swim again.
2010年8月23日
40
相方さんが40歳になった。「人生の半分は過ぎちゃった、、、」と、40と言う数字に過敏に反応しているが、長寿一族の西村家の観点からすると、「100歳まで生きるのなら、半分も行ってない」である。無頓着な私は、「40」と大きく書いた誕生日カードと、40(フォーティーン)という本をプレゼントした。若干複雑そうな顔をしていたが、それでも、お誕生日って、祝ってなんぼ。やっぱり、いくつになっても、めでたいことであり続けたいなあ、と思う。
My partner had his 40th birthday. "I already spent half of my life,,," he said and he dislike to hear the number 40. For me-a member of long life family, 40 is not the middle of the life and gave him the card marked big 40 and the novel titled "40" He showed his complicated thank you face. Anyway, birthday is always good things even we got older.
手作り文庫カバー。この中身が、石田衣良の「40」である。
present1, book cover and book titled "40"
手作り、クマちゃんTシャツ。40になっても、着てもらいます。気の毒?
present2. T-shirts wih bear. Can 40 year-old man wear this? Sorry!
My partner had his 40th birthday. "I already spent half of my life,,," he said and he dislike to hear the number 40. For me-a member of long life family, 40 is not the middle of the life and gave him the card marked big 40 and the novel titled "40" He showed his complicated thank you face. Anyway, birthday is always good things even we got older.
手作り文庫カバー。この中身が、石田衣良の「40」である。
present1, book cover and book titled "40"
手作り、クマちゃんTシャツ。40になっても、着てもらいます。気の毒?
present2. T-shirts wih bear. Can 40 year-old man wear this? Sorry!
待ち受け画面にしていたお気に入りの猫(?)をうちわにしました。
fan with his favorite? cat from his cellphone image.
2010年8月18日
book cover ブックカバー
ずっと、ミシンが欲しかった。迷いに迷って、1年間あちこちで試し縫いをして、先日、とうとう虎の子をはたいて、買ってしまった。ハクスバーナ社のエメラルドちゃん。これで、いろんな家の中のものも手作りするのだ。おしゃれで高価な、ブランドのインテリアでこだわって揃えるのは無理だけど、ニトリとかアイキアの、あきらかに量販店のものだけで家の中を全部揃えていくことは、考えただけで気がめいる。コタツカバーも、ソファーカバーも、ひざ掛けも、クッションカバーも、自分で縫ってしまえば、(いまどき、安売り量販より安く上げることは無理だけど)、自分なりのこだわりの生活ができる。
せっかくなので、オリジナルグッズも作ろう!と、ブックカバーを試作してみた。作ってみると、シンプルに布処理する方法を考えるだけでも、一苦労。まだ、改善の余地だらけ。
I finally bought a sawing machine. I have wanted one for a long time and for a year I was looking around, trying many in various shops. This brings me the life surrounded by what I like. Economically it is impossible for me to purchase whatever I like for my interior such as designer's bland products, but I would be so unhappy if I bought all the interior from cheap discount shops. If I handmade the sofa cover, cushion cover, table clothes and so on, I can keep my original fashionable life(I cannot say it is cheaper than discount shop. They are too cheap now).
I can make original goods, too. First, I tried to make book cover.
ラブリー、エメラルドちゃん。
my lovely sawing machine.
文庫本カバー。裏はこんな感じ。
small book cover. I put different clothing inside.
ドードー鳥です。
My loving dodo patern.
こっちは、新書カバー。
a bit bigger cover.
せっかくなので、オリジナルグッズも作ろう!と、ブックカバーを試作してみた。作ってみると、シンプルに布処理する方法を考えるだけでも、一苦労。まだ、改善の余地だらけ。
I finally bought a sawing machine. I have wanted one for a long time and for a year I was looking around, trying many in various shops. This brings me the life surrounded by what I like. Economically it is impossible for me to purchase whatever I like for my interior such as designer's bland products, but I would be so unhappy if I bought all the interior from cheap discount shops. If I handmade the sofa cover, cushion cover, table clothes and so on, I can keep my original fashionable life(I cannot say it is cheaper than discount shop. They are too cheap now).
I can make original goods, too. First, I tried to make book cover.
ラブリー、エメラルドちゃん。
my lovely sawing machine.
文庫本カバー。裏はこんな感じ。
small book cover. I put different clothing inside.
ドードー鳥です。
My loving dodo patern.
こっちは、新書カバー。
a bit bigger cover.
新書の固さをやわらげ(過ぎ?)てくれる、うさちゃん、くまちゃん柄です。
too cute? bear and rabbit patern.
2010年8月11日
Cellphone photo 携帯待ち受け画像
先日、自分の携帯電話無頓着話を披露したところだが、実は最近、携帯を買い替えた。4年ぶりかな?理由は、「1年後には、システム上、使えなくなるらしい」ということと、カメラが壊れて(2年ぐらい、壊れたままだった)、取材した時なんかの簡単な資料を記録するのに、必要だと感じたからだ。
Last time, I mentioned the cellphone. I just bought new cellphone after using 4 years. The phone company told me that would not work in a year because of system change and also camera was broken for two years. It would be handy to record some references if I have cellphone camera.
ということで、新しい携帯。カメラばっかり大きい、ごつい携帯だ。仕事上、携帯を持ち歩く必要があるし、メールは便利だし、じゅうぶん活用させてもらってるんだけど、どうにも携帯に執着をもてないのか、ストラップもつけていない、おっさんの携帯のようだ(と人に言われた。ちなみに、私の携帯メールは、絵文字もなく、おっさんのメールのようだと言われる)。そういえば、前に見かねた母が、鈴のストラップを「つけなさい」と、渡してきた事があった。すぐなくしちゃったけど。待ち受け画面も、愛想のない初期設定の、機械模様のまま。 やる気ないなあ、、、
This is my new cellphone. It is radically manly and big because I chose camera function first. I do not put any decoration and it looks the middle aged man's cellphone. I even did not change the photo from the first setting.
ちなみに、一個前の携帯の待ち受けは、「ハルト(赤ちゃん時代)とわたし」という写真だった。つまり3年間、同じ画像、使いっぱなしだったということか、、、
This is the last cellphone. I used the photo with baby Haruto-now he is 3 years old. It means I kept using the same photo for three years.
若いカップルは、昔のプリクラっぽいツーショットとかを待ち受けにしてるんだろうなあ。どっか、思い出の場所に行った時のとか。なんか、マーキングっぽいなあ、とも思うが、うん十年前の定期券の裏、みたいな存在なのかな?(古い?ちなみに、私はその時も、財布に定期を入れちゃって、定期いれを持ってなかったし、好きなアイドルの切り抜きもノートに、はさんでなかった。そもそも、こういうことに、やる気がない性格なんだな、、、)
Young couple use their shot together. It might be same feeling of putting the favorite star photo behind the pass card in the last century. I even did not do that when I was in high school. I am that kind of lazy person.
では、 相方さんの待ち受け画面はどうなってるんだろう?気になったので、のぞいてみると、
Then what does he put in his cellphone?
うち(吉祥寺)の近所のノラ猫だった。この猫、目つきも毛並みも悪く、まったく愛想がない。呼んでも寄って来ないので、この写真も、かなりの離れたところから撮られている。写真自体も、なにか愛らしさのあるポーズでもなく、ただだらしないポーズでこっちをにらみつけている。いったい、自分の飼い猫でもないのに、なぜ、この写真、、?ちなみに、この待ち受けを、イラついてるときに見ると、よけいにイラっとくるらしい。訳がわからない。
It was the stray cat in my neighbor. This cat is very wild and ignore people. His face expression is quite unfriendly and his fur is dirty. He never comes closer even we called, so the shot was taken from distance. He is staring at the camera in loose pose. Why did he choose this photo? He said that he increase his irritate when he saw this photo. I really do not understand his choice.
Last time, I mentioned the cellphone. I just bought new cellphone after using 4 years. The phone company told me that would not work in a year because of system change and also camera was broken for two years. It would be handy to record some references if I have cellphone camera.
ということで、新しい携帯。カメラばっかり大きい、ごつい携帯だ。仕事上、携帯を持ち歩く必要があるし、メールは便利だし、じゅうぶん活用させてもらってるんだけど、どうにも携帯に執着をもてないのか、ストラップもつけていない、おっさんの携帯のようだ(と人に言われた。ちなみに、私の携帯メールは、絵文字もなく、おっさんのメールのようだと言われる)。そういえば、前に見かねた母が、鈴のストラップを「つけなさい」と、渡してきた事があった。すぐなくしちゃったけど。待ち受け画面も、愛想のない初期設定の、機械模様のまま。 やる気ないなあ、、、
This is my new cellphone. It is radically manly and big because I chose camera function first. I do not put any decoration and it looks the middle aged man's cellphone. I even did not change the photo from the first setting.
ちなみに、一個前の携帯の待ち受けは、「ハルト(赤ちゃん時代)とわたし」という写真だった。つまり3年間、同じ画像、使いっぱなしだったということか、、、
This is the last cellphone. I used the photo with baby Haruto-now he is 3 years old. It means I kept using the same photo for three years.
若いカップルは、昔のプリクラっぽいツーショットとかを待ち受けにしてるんだろうなあ。どっか、思い出の場所に行った時のとか。なんか、マーキングっぽいなあ、とも思うが、うん十年前の定期券の裏、みたいな存在なのかな?(古い?ちなみに、私はその時も、財布に定期を入れちゃって、定期いれを持ってなかったし、好きなアイドルの切り抜きもノートに、はさんでなかった。そもそも、こういうことに、やる気がない性格なんだな、、、)
Young couple use their shot together. It might be same feeling of putting the favorite star photo behind the pass card in the last century. I even did not do that when I was in high school. I am that kind of lazy person.
では、 相方さんの待ち受け画面はどうなってるんだろう?気になったので、のぞいてみると、
Then what does he put in his cellphone?
うち(吉祥寺)の近所のノラ猫だった。この猫、目つきも毛並みも悪く、まったく愛想がない。呼んでも寄って来ないので、この写真も、かなりの離れたところから撮られている。写真自体も、なにか愛らしさのあるポーズでもなく、ただだらしないポーズでこっちをにらみつけている。いったい、自分の飼い猫でもないのに、なぜ、この写真、、?ちなみに、この待ち受けを、イラついてるときに見ると、よけいにイラっとくるらしい。訳がわからない。
It was the stray cat in my neighbor. This cat is very wild and ignore people. His face expression is quite unfriendly and his fur is dirty. He never comes closer even we called, so the shot was taken from distance. He is staring at the camera in loose pose. Why did he choose this photo? He said that he increase his irritate when he saw this photo. I really do not understand his choice.
2010年8月9日
summer postcards 暑中お見舞いはがき
最近、時代の流れがはやくなったなあ、と感じる。購入したパソコンは、数年のうちに、対応する機器やソフトがなくなっていき、コンピューター技術も、数ヶ月単位でどんどん更新され、5年後には全く役に立たなくなる。最新の機能をいっぱいにつけた薄型の携帯電話が店に並んでいるのを見ると、気が遠くなる。移動中にテレビなんて、本当に見なくちゃいけないんだろうか?これだけの進化とスピードを、みんなが望んでいるのだろうか?年齢が上がって、自分が時代についていけないだけとは、言えないと思う。この加速した変化が、人の幸福感や生活すらおびやかしてる気がする。普通の人間が普通に暮らし、身につけてきた技術が、あまりの変化の早さに、更新し切れなくて、すぐに評価されないようになるなら、スピードに乗り遅れそうになった瞬間、人は今生きている意味すら、見失ってしまう。
「スローライフ」とか「スローフード」、「ロハス」とか、時間をかけて、生活を楽しみ、ものや精神性を大事にして、生きる実感を感じようというアクションが、目立つようになったのも、人が、バランスを取ろうとしているのかなあ、と思う。
The things has changed much faster recently. New PC won't work with latest software and tools in a few years. Programs updated every few months and knowledge discarded in 5 years. I feel tired just looking at thousands of latest cellphones in the shop. Do we really have to watch TV in the train? Does everybody want this change and development? I am not only one to find difficulty to catch up with the time. This fast change gives people not only happiness. Actually they disturb people to have vision of life. How can we concrete the life plan since all the experiences does not make sense in a few years?
"Slow life" "Slow food" "Lohas" is now fashion in the media. Those actions are reaction against the fast time change.
メールが普及してから、手紙を書く機会が減った。年末年始の風物詩であった年賀状も売り上げが落ちている。メールで「おめでと!」と送ってしまえば、安く早く気軽に済ませてしまえる。そういえば、ちょっと前の恋愛小説を読んで、びっくりした事がある。個人電話すらない寮生活で、手紙で約束の日時を決めていて、行き違いがあり、それを長々と行き来する手紙でけんかと言い訳をくり返していた。ひとつ誤解を解くのにどれだけの時間がかかってるの?と呆れた。でも、もしかしたら、その時間こそが、若い二人を冷静に立ち返らせる時間でもあったのかもしれない。今は、告白も、別れも、メール一通で済まされる事も多くなった。便利で安くて、スピーディーで、あとくされのない、メール。でも、そのスピーディーなやり取りは、荒っぽく、短絡的な結論に陥りやすい。案外、メールのやり取りで、別れにつながったケースも多いのではないだろうか?
いつしか、私も、普段のほとんどの連絡手段はメールになってしまっている。それでも、自筆で書かれた手紙は、やっぱり別格だな、と思う。ポストを開けて見つけた時の、わくわく感。手に持った質感。達筆だったり、きまじめだったりする、人間性の出た文字。ハガキを選んでくれるのに使った時間と気配り。飾ったり、ノートにはさんで隠したりーそこには、「見えるドラマ」がある。そういえば、アメリカでは、eメールに対して、普通の郵便を「snail mail」(かたつむりメール)と呼ぶ。アーノルドローベルの「おてがみ」という話を思い起こさせて、やさしい気持ちになる。
たまには、おいしいお茶を入れて、短い一言でいいから、大事な人にハガキを送る時間もいい。普段がメールだからこそ、特別な時間になる。そんな風に、「一言、送りたいな」て思ってもらえたら、とポストカードを作ってみた。暑中お見舞いハガキとして提供するには、ちょっと遅くなってしまったけど、この後、秋のカードと、クリスマスカードを作る予定。
After e-mail became poplar, we rarely correspond the letters each other. Instead of sending the card, you can just say, "Happy new year!" by email. It is fast, cheap and handy. I read novels written just decades ago and got so surprised. At that time, young couple had no access to e-mail or phone, and they set up the date through the letters. Sometimes they made misunderstandings. They argued in each letters. How much time did they take for those conversation? However, that gave the young couple time to think over and get calm. E-mail is fast and convenient to explain what happens, but sometimes brings impatient conclusion by short-time reaction.
I use email everyday contact. Still I have some special emotion about mailing. The excitement when I found it in the post, the feeling of the paper, characteristic handwriting of the senders, the time and heart that the sender spent to choose the card or papers, and visual drama afterwards-put on the refrigerator or hide in the diary, all of those are precious. In US, people called it "snail mail" compared with email. That name reminds me the story by Arnold Robel and gives me happy feelings.
Since we use always email, the snail mail has much special meanings now. To make a cup of tea and put some postcards on table and write down for short message to friends will be great time for everybody. Wishing that, I designed postcards. It is about summer and too late to sell, but I will make fall seasons card and Christmas card after this.
ちなみに、暑中お見舞い申し上げます、は梅雨明けから立秋(今年は8月7日)まで、それ以降は、残暑お見舞い申し上げます、になるそうです。
「スローライフ」とか「スローフード」、「ロハス」とか、時間をかけて、生活を楽しみ、ものや精神性を大事にして、生きる実感を感じようというアクションが、目立つようになったのも、人が、バランスを取ろうとしているのかなあ、と思う。
The things has changed much faster recently. New PC won't work with latest software and tools in a few years. Programs updated every few months and knowledge discarded in 5 years. I feel tired just looking at thousands of latest cellphones in the shop. Do we really have to watch TV in the train? Does everybody want this change and development? I am not only one to find difficulty to catch up with the time. This fast change gives people not only happiness. Actually they disturb people to have vision of life. How can we concrete the life plan since all the experiences does not make sense in a few years?
"Slow life" "Slow food" "Lohas" is now fashion in the media. Those actions are reaction against the fast time change.
メールが普及してから、手紙を書く機会が減った。年末年始の風物詩であった年賀状も売り上げが落ちている。メールで「おめでと!」と送ってしまえば、安く早く気軽に済ませてしまえる。そういえば、ちょっと前の恋愛小説を読んで、びっくりした事がある。個人電話すらない寮生活で、手紙で約束の日時を決めていて、行き違いがあり、それを長々と行き来する手紙でけんかと言い訳をくり返していた。ひとつ誤解を解くのにどれだけの時間がかかってるの?と呆れた。でも、もしかしたら、その時間こそが、若い二人を冷静に立ち返らせる時間でもあったのかもしれない。今は、告白も、別れも、メール一通で済まされる事も多くなった。便利で安くて、スピーディーで、あとくされのない、メール。でも、そのスピーディーなやり取りは、荒っぽく、短絡的な結論に陥りやすい。案外、メールのやり取りで、別れにつながったケースも多いのではないだろうか?
いつしか、私も、普段のほとんどの連絡手段はメールになってしまっている。それでも、自筆で書かれた手紙は、やっぱり別格だな、と思う。ポストを開けて見つけた時の、わくわく感。手に持った質感。達筆だったり、きまじめだったりする、人間性の出た文字。ハガキを選んでくれるのに使った時間と気配り。飾ったり、ノートにはさんで隠したりーそこには、「見えるドラマ」がある。そういえば、アメリカでは、eメールに対して、普通の郵便を「snail mail」(かたつむりメール)と呼ぶ。アーノルドローベルの「おてがみ」という話を思い起こさせて、やさしい気持ちになる。
たまには、おいしいお茶を入れて、短い一言でいいから、大事な人にハガキを送る時間もいい。普段がメールだからこそ、特別な時間になる。そんな風に、「一言、送りたいな」て思ってもらえたら、とポストカードを作ってみた。暑中お見舞いハガキとして提供するには、ちょっと遅くなってしまったけど、この後、秋のカードと、クリスマスカードを作る予定。
After e-mail became poplar, we rarely correspond the letters each other. Instead of sending the card, you can just say, "Happy new year!" by email. It is fast, cheap and handy. I read novels written just decades ago and got so surprised. At that time, young couple had no access to e-mail or phone, and they set up the date through the letters. Sometimes they made misunderstandings. They argued in each letters. How much time did they take for those conversation? However, that gave the young couple time to think over and get calm. E-mail is fast and convenient to explain what happens, but sometimes brings impatient conclusion by short-time reaction.
I use email everyday contact. Still I have some special emotion about mailing. The excitement when I found it in the post, the feeling of the paper, characteristic handwriting of the senders, the time and heart that the sender spent to choose the card or papers, and visual drama afterwards-put on the refrigerator or hide in the diary, all of those are precious. In US, people called it "snail mail" compared with email. That name reminds me the story by Arnold Robel and gives me happy feelings.
Since we use always email, the snail mail has much special meanings now. To make a cup of tea and put some postcards on table and write down for short message to friends will be great time for everybody. Wishing that, I designed postcards. It is about summer and too late to sell, but I will make fall seasons card and Christmas card after this.
ちなみに、暑中お見舞い申し上げます、は梅雨明けから立秋(今年は8月7日)まで、それ以降は、残暑お見舞い申し上げます、になるそうです。
2010年8月3日
words 2 ことば2
先日、プロダクトデザイン会社に勤める友人が、外国人のデザイナーの面接をした。英語も日本語もできないデザイナーは、翻訳ソフトで訳したプレゼン資料を提出したきり黙りこくって、全く意味がわからなくて、たいそう困ったそうだ。
On the other day, my friend who works for product design company told me about the guest designer from oversea. They did not speak either Japanese or English and they handed auto-translated documents and kept quiet. The documents were rarely understandable.
現在の翻訳ソフトは、ひとつひとつの単語を機械的に訳して、文法をシステム的に並びかえていくだけの能力しかない。だいたい、辞書を使っても一つの単語につき3個〜15個ぐらいの意味があり、その中から、適切なものを選んでいく作業が必要だ。さらに昨日のリンゴじゃないが、文化的な背景もあるとしたら、二つの言語の間には、自動的には絶対対応できない深い溝がある。そう思うと、それに対応してる人間の脳って、すごいと思う。翻訳ソフトは、今後、どれぐらいその溝を埋めて発達していくのだろう?
The present auto-translation software only has ability to automatically transfer one word into another and line them in grammatical system. Even in dictionary, each word has about 3-15 different meanings and we need to choose proper words for the contents. Even we find the right words for the content, there is still gap between two languages which has different cultural background. Thought of that, brain is unbelievable. I wonder how much can auto-translation software develop to take places of human being brain does.
私は、中学校で英語が始まった時、「なんて、つまらないんだろう」と思った。決まり(文法)と、機械的な対応(辞書で調べて、あてはめていく)で、文章を切れ切れに「ケンは、ルーシーと 盆踊りに 行った」みたいな文章を読んでも、なんの感動もなかった。自然と、あんまり成績も良くなかったし、なんかちょっとミスするだけで(文法も大事なんですけどね)ペケになるだけの、つまんない学科だった。いやいや、勉強してた。
I disliked English as subject when I started in junior high school. It is about grammar and finding the words in dictionary. The text is like, "Ken went to Bon dance with Lucy." It was radically boring to me. I marked bad scores just because of small careless mistakes.
英語のおもしろさを知ったのは、原文で文学作品を読むようになってからだ。「不思議の国のアリス」「赤毛のアン」などなど。高校生の私の実力では、一冊読むだけの根気と時間がなかったけれど、英語の文章というものが、日本語とは全く別の、美しい構造をしていて、音がきれいだと知った。流し読みしていても、意味がなんとか理解できたし、わくわくして、涙を流して感動する事だってできた。「英語」が生きた言葉として、私の中にはじめて、直接入ってきたのだ。
Later in high school, I started to read literature in original and found it interesting for the first time. I could not read whole book of novels but I could understand what they said and I could feel beauty of the structure and rhythm. I was sometimes so moved that I teared. English came into me as the live language.
「英語のいい勉強方法を教えて下さい」と聞かれることがある。上記のように、私は英語は得意ではなく、2カ国語授業で有名な某出身大学では、「わかったふりをする」事に終始した残念な学生時代を思うと、なにも言える立場ではないのだが、とりあえず「映画」を勧める事にしている。映画を字幕を消して(あるいは英語字幕で)見る。映画は少なくても、見ていて楽しい。「きちんと理解できた」のかイマイチはっきりしなくても、じーんとしたり、セリフが印象に残ったりする。感情や共感を伴うのは、生きた言語体験なので、言葉が身になじむ。
Some people asked me the way to study English. I was not so good at language as I said above and not good adviser at first place, but I answered, "movies." If you watch movies without Japanese subtitles, it is effective to learn live language. First you enjoy movies and also you are impressed even you are not sure you perfectly understand it. Real language gives you emotion, sympathy and so on.
私は、英語を話す時、若干テンションが変わる。はねたような、ピチピチした話し方になるのだ。一方、日本語は、かなり感情表現が押さえられた言語。日本美人が、たおやかに、「お帰りになるのですね」と、ためらいがちに言うのが、美しいとされる言語なのだ。そういう言葉の特徴が染み付いてるから、ハイテンションな挨拶は不自然。言葉って、同じ人間の人格すら違って見せるのだ。
英語を、一語一語、日本語におきかえて、理解しようとすると、常に、違和感と「欠落した部分」が出てきてしまう。原文を読むからには、生でそのまま味わえたら、リズムや、空気感を感じ取れて、とても新鮮だと思う。夏の夜長に、ぜひ、英文で「I am Dodo」を読みませんか?(え、宣伝?)
I changed the tone in English. I am a little more emotional when I talk in English. Japanese is the less emotional language and we think that hiding own emotion is more sophisticated and beautiful. I was brought up in this culture, so I know it is unnatural to talk in tense. Same person looks different personality in different language.
If you translate other language one word each into Japanese before understanding, you will always feel unnatural and missing. It is going to be different experience the original texts as they are. Why don't you try "I am Dodo" for summer night read? (commercial?)
On the other day, my friend who works for product design company told me about the guest designer from oversea. They did not speak either Japanese or English and they handed auto-translated documents and kept quiet. The documents were rarely understandable.
現在の翻訳ソフトは、ひとつひとつの単語を機械的に訳して、文法をシステム的に並びかえていくだけの能力しかない。だいたい、辞書を使っても一つの単語につき3個〜15個ぐらいの意味があり、その中から、適切なものを選んでいく作業が必要だ。さらに昨日のリンゴじゃないが、文化的な背景もあるとしたら、二つの言語の間には、自動的には絶対対応できない深い溝がある。そう思うと、それに対応してる人間の脳って、すごいと思う。翻訳ソフトは、今後、どれぐらいその溝を埋めて発達していくのだろう?
The present auto-translation software only has ability to automatically transfer one word into another and line them in grammatical system. Even in dictionary, each word has about 3-15 different meanings and we need to choose proper words for the contents. Even we find the right words for the content, there is still gap between two languages which has different cultural background. Thought of that, brain is unbelievable. I wonder how much can auto-translation software develop to take places of human being brain does.
私は、中学校で英語が始まった時、「なんて、つまらないんだろう」と思った。決まり(文法)と、機械的な対応(辞書で調べて、あてはめていく)で、文章を切れ切れに「ケンは、ルーシーと 盆踊りに 行った」みたいな文章を読んでも、なんの感動もなかった。自然と、あんまり成績も良くなかったし、なんかちょっとミスするだけで(文法も大事なんですけどね)ペケになるだけの、つまんない学科だった。いやいや、勉強してた。
I disliked English as subject when I started in junior high school. It is about grammar and finding the words in dictionary. The text is like, "Ken went to Bon dance with Lucy." It was radically boring to me. I marked bad scores just because of small careless mistakes.
英語のおもしろさを知ったのは、原文で文学作品を読むようになってからだ。「不思議の国のアリス」「赤毛のアン」などなど。高校生の私の実力では、一冊読むだけの根気と時間がなかったけれど、英語の文章というものが、日本語とは全く別の、美しい構造をしていて、音がきれいだと知った。流し読みしていても、意味がなんとか理解できたし、わくわくして、涙を流して感動する事だってできた。「英語」が生きた言葉として、私の中にはじめて、直接入ってきたのだ。
Later in high school, I started to read literature in original and found it interesting for the first time. I could not read whole book of novels but I could understand what they said and I could feel beauty of the structure and rhythm. I was sometimes so moved that I teared. English came into me as the live language.
「英語のいい勉強方法を教えて下さい」と聞かれることがある。上記のように、私は英語は得意ではなく、2カ国語授業で有名な某出身大学では、「わかったふりをする」事に終始した残念な学生時代を思うと、なにも言える立場ではないのだが、とりあえず「映画」を勧める事にしている。映画を字幕を消して(あるいは英語字幕で)見る。映画は少なくても、見ていて楽しい。「きちんと理解できた」のかイマイチはっきりしなくても、じーんとしたり、セリフが印象に残ったりする。感情や共感を伴うのは、生きた言語体験なので、言葉が身になじむ。
Some people asked me the way to study English. I was not so good at language as I said above and not good adviser at first place, but I answered, "movies." If you watch movies without Japanese subtitles, it is effective to learn live language. First you enjoy movies and also you are impressed even you are not sure you perfectly understand it. Real language gives you emotion, sympathy and so on.
私は、英語を話す時、若干テンションが変わる。はねたような、ピチピチした話し方になるのだ。一方、日本語は、かなり感情表現が押さえられた言語。日本美人が、たおやかに、「お帰りになるのですね」と、ためらいがちに言うのが、美しいとされる言語なのだ。そういう言葉の特徴が染み付いてるから、ハイテンションな挨拶は不自然。言葉って、同じ人間の人格すら違って見せるのだ。
英語を、一語一語、日本語におきかえて、理解しようとすると、常に、違和感と「欠落した部分」が出てきてしまう。原文を読むからには、生でそのまま味わえたら、リズムや、空気感を感じ取れて、とても新鮮だと思う。夏の夜長に、ぜひ、英文で「I am Dodo」を読みませんか?(え、宣伝?)
I changed the tone in English. I am a little more emotional when I talk in English. Japanese is the less emotional language and we think that hiding own emotion is more sophisticated and beautiful. I was brought up in this culture, so I know it is unnatural to talk in tense. Same person looks different personality in different language.
If you translate other language one word each into Japanese before understanding, you will always feel unnatural and missing. It is going to be different experience the original texts as they are. Why don't you try "I am Dodo" for summer night read? (commercial?)
2010年8月2日
words ことば
昔、アメリカ人に、「え、両親にキスした事ないの?それで、どうやって、愛情を示せるの?」と驚かれた事がある。確かに、アメリカ人は家族の情愛を示すのに、始終抱きしめたり、キスしたりしてるので、それをしないで、どうやって親子の愛情関係を示せるのか、理解できなかったようだ。
An American friend said to me, "Haven't you kiss your parents? I cannot believe it! How can you show your love without it?" American families always hug, kiss each other and they did not understand Japanese way.
先日、バカップルは、「親の世代はきっと、愛してる、とか、好き、て言った事すらないんだろうね」という話しになった。でも、それは世代間で文化の違いが存在していて、気持ちとその言葉が、接続していないから、使っても仕方がないのだろう。
On the other day, we talked about our parents generations and guessed that they rarely said "I love you" or "I feel affection for you." But they were brought up under different time and they hadn't heard or said those words, so the words were meaningless for them.
翻訳の難しさを説くのに、日本語のりんごと、英語のAppleが同じではない、という有名な例えがある。日本のリンゴは、品種改良の結果大きいが、appleは木に野生になっている小さい。
There is the famous example to tell the difficulty of the translation. Ringo, Japanese apple, is different from apples in English. Ringo is bigger as a result of tender agricultural effort and apple is wild and smaller.
したがって、日本のりんごは、皮を剥いて、切って、ようじにさして食べるような感じで文学作品でも出てくるし、
In Japanese literature, Ringo appears as "mother peeled it and put into the glass bowl with forks,
アメリカの文学では、ポケットに無造作に数個(小さいので可能)つっこんで、そのままバリバリ食べる食べ物として、出てくる。
In American literature, apples appear "he puts some apples into pocket and walk them walking the street." The image is a little different when we heard the same fruit name.
アメリカ人の老夫婦が、いとも簡単に「I love you honey」と言っているように、日本のその世代の老夫婦が「愛してるよ」と言うかと言えば、「愛してる」という言葉自体、自分の感情を表す言葉として、ボキャブラリーにないので、まず、言わないだろう。言ったとしても、同じようには扱えないというか、、、
As American old couple said each other almost everyday, "I love you honey" but Japanese same generation couples never did same. "I love you" is not in their vocabulary to show their affection. But we cannot say that Japanese old couples don't love each other, or they do not tell each other.
大事なのは、「愛されてるんだなあ」と相手に伝わる事。そういう意味で、うちの祖父は、祖母にちゃんと大事な気持ちを言葉にして、伝えていた。それは、もう晩年の事だったそうだが、ある日寝る時に、「なあ、ばあさん。わし達は、本当に幸せな夫婦だな。子供達もみな、きちんと育ってくれてな。」と言ったのだそうだ。「わし達は、幸せな夫婦だな」と、お互いしわよった時に、改めて相手に言えるのは、「I love you」に匹敵すると思う。言葉は、言った、言わない、が大事なのではなく、当たり前だけど、どれだけの関係や文化が後ろにあるか、なんだなあと思う。
The important thing is to let the partner know "I am loved." My grandfather, one nigh in the latter part of his life, said to my grandmother, "we are the most happiest couple. Kids are all grown up nicely." When becoming older, if they could say that they were happiest, it means that they love each other. It is not important which words are said. It is always culture and relationship behind the words choice.
An American friend said to me, "Haven't you kiss your parents? I cannot believe it! How can you show your love without it?" American families always hug, kiss each other and they did not understand Japanese way.
先日、バカップルは、「親の世代はきっと、愛してる、とか、好き、て言った事すらないんだろうね」という話しになった。でも、それは世代間で文化の違いが存在していて、気持ちとその言葉が、接続していないから、使っても仕方がないのだろう。
On the other day, we talked about our parents generations and guessed that they rarely said "I love you" or "I feel affection for you." But they were brought up under different time and they hadn't heard or said those words, so the words were meaningless for them.
翻訳の難しさを説くのに、日本語のりんごと、英語のAppleが同じではない、という有名な例えがある。日本のリンゴは、品種改良の結果大きいが、appleは木に野生になっている小さい。
There is the famous example to tell the difficulty of the translation. Ringo, Japanese apple, is different from apples in English. Ringo is bigger as a result of tender agricultural effort and apple is wild and smaller.
したがって、日本のりんごは、皮を剥いて、切って、ようじにさして食べるような感じで文学作品でも出てくるし、
In Japanese literature, Ringo appears as "mother peeled it and put into the glass bowl with forks,
アメリカの文学では、ポケットに無造作に数個(小さいので可能)つっこんで、そのままバリバリ食べる食べ物として、出てくる。
In American literature, apples appear "he puts some apples into pocket and walk them walking the street." The image is a little different when we heard the same fruit name.
アメリカ人の老夫婦が、いとも簡単に「I love you honey」と言っているように、日本のその世代の老夫婦が「愛してるよ」と言うかと言えば、「愛してる」という言葉自体、自分の感情を表す言葉として、ボキャブラリーにないので、まず、言わないだろう。言ったとしても、同じようには扱えないというか、、、
As American old couple said each other almost everyday, "I love you honey" but Japanese same generation couples never did same. "I love you" is not in their vocabulary to show their affection. But we cannot say that Japanese old couples don't love each other, or they do not tell each other.
大事なのは、「愛されてるんだなあ」と相手に伝わる事。そういう意味で、うちの祖父は、祖母にちゃんと大事な気持ちを言葉にして、伝えていた。それは、もう晩年の事だったそうだが、ある日寝る時に、「なあ、ばあさん。わし達は、本当に幸せな夫婦だな。子供達もみな、きちんと育ってくれてな。」と言ったのだそうだ。「わし達は、幸せな夫婦だな」と、お互いしわよった時に、改めて相手に言えるのは、「I love you」に匹敵すると思う。言葉は、言った、言わない、が大事なのではなく、当たり前だけど、どれだけの関係や文化が後ろにあるか、なんだなあと思う。
The important thing is to let the partner know "I am loved." My grandfather, one nigh in the latter part of his life, said to my grandmother, "we are the most happiest couple. Kids are all grown up nicely." When becoming older, if they could say that they were happiest, it means that they love each other. It is not important which words are said. It is always culture and relationship behind the words choice.
登録:
投稿 (Atom)