そんな訳で、読もうと努力。社会主義のその後をほとんど知らなかった。難しい、、、 |
ここ1年、「人のはなし」と「現実」のギャップにとまどってきた。
それまで「おもしろいな」と思っていた人が話すことと、自分の身に起きたこととの間に溝ができ、その溝がマリアナ海溝のように深かったからである。
そのことは、とても不安定な気持ちにさせた。
今まで、気に入った作家の作品を読み、うんうんとうなづき、気に入ったラジオを聴いて、なるほどと思ってたのだけど、これから先何を信じたらいいのだろう?と思ったからだ。
なにか勘違いをしているのだろうか?でも、実際目で見て体験したことほど、確実なものはない。
世界が嘘だらけのように感じて、なにを信じていいのか悩んだ。そして、当たり前といえば当たり前の結論に至る。
人は、わりと、まちがえる。
ある一つの専門家であっても、他のものごとに関しては、詳しいわけではない。それぞれが、自分の持ってる情報から、「私見を」述べているだけなのだ。それ以上でも、それ以下でもない。当然、まちがいもある。
すこし考えればわかることなのに、人の脳みそは頑固だ。一度「いいこと言うなあ」という体験をしていると、その人が言うことは他のことまで正しいように思ってしまう。
世界は、私見であふれかえっている。私見がいけない訳じゃない。「人のはなし」は、それぞれがそれぞれの思いで語っていて、その中にはよい情報もある。率直な思いが、人を動かす。好物や趣味程度の話なら、私見ベタベタの方がおもしろいぐらいだ。
でも、いくら賢い人の意見であっても、私見には、井戸端会議のおしゃべり程度の確実さしかないものもある。ジャッジが難しいことに対して、社会的責任をともなう事柄に関して、確証なしに影響力最大で垂れ流されている情報もある。それらは、責任を取る覚悟で発信されてるだろうか?
そう考え始めたら、情報の海が、魑魅魍魎がぷかぷか浮いた、混沌としたものに見え、船出する前から船酔いしそうになった。
このままじゃダメだと、一度「人のはなし」を聞くのを辞めてみた。
できるかぎり、その分野の専門家の見解を読み、より当事者に近い人の話を聞いた。考察は公正であるか、データは正しいか、十分な母数あるか、改ざんや切り取りはないか、検証しなくてはいけない。それは素人にはできないから、研究者を信用することにした。研究者は、感覚で論文を書いてはいけないからだ。
より責任を持って発信されている情報を集めるようにしたら、一個の行動をするのに、一個の発言をするのに、今までの何倍もの時間がかかるようになった。
先日の知事選も、わたしはそのようにして過ごした。候補者の討論番組を見せてもらい、選挙公報を読んだ。そして、自分だけで決めて、一票を投じた。
気持ちが落ち着いた。なんだか、混沌の中で、羅針盤を見つけたような心地になった。
そうして、人のはなしを聞くのも、また楽しめるようになった。そうかもね。どうかなあ。違うんじゃない?いやいや、それは、言っちゃいけないことでしょう。それは、ぜひぜひ、みんなにも伝えるべきだね。
そう。いろいろだ。人はまちがえる。立派そうな人も、めっちゃ、まちがえるのだ。
自分の目で確かめるというのは、とてもとても、手間と時間と心を使うことだけど、子どもには、めんどうな作業の大切さを知ってほしい。パッと目で見たから、はなしを聞いたから、そう感じたから行動するのではなく、情報を選んで確かめて、その後のことを想像しながら動いてほしい。
それは、大人の自分にも難しかった。だから、「そうしなさい」ではなく、「いっしょにがんばろう」だ。