2023年11月6日

カンコロの島紀行10月「祭りのある町」


 10月は、お祭りについて書きました。

わたし自身は、新興住宅地のできあいの祭りで育ち、その祭りですら継承されず、わが故郷に祭りはなくなっていました。

先日、実家を処分しました。わたしに故郷はなくなりました。もし、わたしの町に祭りがあったのなら、祭りを見に帰ることもできただろうし、「ああ、今頃、祭りがやってるなあ」と思いを馳せることができたでしょう。家はなくなっても、故郷はあるように感じられた気がします。

でも、わたしはそうした、「思いを馳せる風景」もないように感じます。

祭りって、そういう存在なのかな、と取材を通して感じました。

カンコロの島紀行9月「青方のお盆」

 

9月も、続けて青方のお盆の取材のお話を書きました。

わたし自身は、実家での盆行事がほとんどなく育ってきて、今も、精霊舟を見物する程度のお盆の過ごし方をしています。お盆だけではなく、お墓や仏壇など「ご先祖様にまつわる行事」というものは、大変だというイメージが強く、現代の生活には合わないな、と感じてきました。 

ただ、今回、青方のお盆の様子を取材して「その大変さの中に、文化があるので、全部、合理化して、省略していったら、文化は残らないのでは、、、」とも、感じました。玉ねぎの皮を剥き続けたら、本体、なくなってたみたいな。有用な部分だけ残そうと思っても、結局、皮自体が本体で、一つ一つが玉ねぎなのです。

「だから、面倒でも人々はがんばって、すべての文化を継承すべきだ」とも「合理化で、それらが消えるのは、必然だ」とも、言いたいわけじゃないのですが。


カンコロの島紀行8月「青方念仏みゃ」

 

久しぶりに、ブログをアップ。記事のアップをします。

今年度に入り、来年用の雑誌の取材で、新上五島町に通っています。今年は、お盆に島に行くことができました。今まで「取材してみたいなあ」と思いながらも、繁忙期になるので、なかなか機会がなかった時期。とても新鮮な一面を見ることができています。

お盆の取材は、みなさん、それぞれ家のことで手一杯なところにお邪魔するので、ご迷惑になってしまうところなのに、青方の方々のご協力で、とても活気溢れる上五島の一面を見ることができました。

 この回で一番、印象に残っているのが「中学生を引き込む」という作戦が、戦後すぐに始まったことです。おかげで、確実に人は減っているのに、伝統文化は活気のあるまま守られていました。

いわれや歴史的背景もさることながら、「どうして、この文化が残ったか」や「どうやって行きたいとコミュニティが望んでいるか」ということに興味が湧きます。

個人的に、中学生が日当をもらえることも、とてもよいアイデアだと感じました。

2023年6月16日

たのしかったなあ It was fun!

 

引っ越してから、4年。しまいこまれていたアルバムを並べた所、娘がパラパラと開いては、

「あ、これ、やったねー。」

と、楽しそうに眺めている。 本人、忘れちゃったんだろうなあ、と思っていたが、「たのしかったなあ」の気持ちは、いつでも、蘇ってくるようだ。

もうすぐ、12歳。「たのしかったなあ」をくり返す娘を見ながら、自分も「たのしかったなあ」を思い返していた。

もちろん、その渦中にいた時は、時間を取られ、仕事に100パーセントの力を費やすことはできず、泣かれるわ、自己嫌悪になるわ、てんやわんやの10数年だった。

それは、ささやかなことのくり返しだったけれど、親にとっても、子にとっても、いっしょになにかをしたことの「たのしかったな」の後味は残っている。

 「たのしかったなあ」は、主に、手間と時間を費やして、行われる。小さなバッジ。のりベタベタのカード。家族内通貨。誕生日のティアラ。花の汁で絵を描く。石投げ。あんまり取れない魚取り。

そこで使われた、手間と時間は、なにか確実な成果を生み出すかというと、残ったのはこのアルバムぐらい。お金にもならんし、見える形での能力にもつながってない。

ただ、「たのしかったな」貯金てのが、あるような気がする。すごく辛い時、悲しいことが起きた時、子どもがのり越えていくのに、この貯金が使えたような、、、わたしの個人的な感想ですが。

最近、世の流れが、「みんな、働け」なのかなと感じる。子育て世代が、環境が整って、働きやすくなるのは喜ばしいのだけど、リスキリングとか出てくると、できた時間や手間は、そっちに回せと言われてる気がする。先に向かって、ずっとずっと、向上していこうぜ!と、なんだか、追い立てられてるよう。

親子の「たのしかったなあ」の時間は、なくなりませんように。

2023年5月9日

AIロボ AI robbot

 

 
 
今年も大学に通って研究することを決めた娘。

迷いに迷って、研究内容を「ものわすれサポートロボットの開発」にした。

お年寄りの発言、行動を記録し、「ものわすれ」を起こした時に、ヒントを出してくれるロボットを作りたいらしい。

わたしも、「ものわすれ」はどうして起きるのだろうか、どのようなサポートが脳の後退防止に有効なのだろうかと気になったので、認知症や脳の本を読んでみた。 興味深い。

ものわすれサポートロボットは、AIなしでは作り上げられない。ちょうど、チャットGPTの記事を、連日見かけるようになった。

AIに関しては、わたしは、文字文化の衰退が心配だと思ってきた。

機械が作った文章が身近になった時、どの文章が人間の手に残るのか、想像してみる。 説明書や解説文は、AIが合理的な文章を書いてくれるだろう。報告書や記事なども、情報を入れて、書いてもらったものを最終チェックだけ人がすれば、時短となり、人件費も削減できる。そうやって、機械が書いて、人が読む、という構図になっていくのだろうか。しかし、考えてみると、正しく読み取るのだって、機械の方が上手かもしれない。そうこうしているうちに、機械が書いて、機械が読むことになっていたりして?そうしたら、人間は読むも書くも、訓練しなくてもいい???あれ?でも、そうすると、文章は必要ある?

読む、書く、の文化の先々について、もんもんと考えてしまう(ChatGPTは、信頼できる文章をまだ書けないが)。

一方、娘のオンラインの面接を横から見ていると、教授達との話しは、「それは可能だよ」「こんな可能性もあるよ」と、わくわくの世界だった。世の中の困りごとを解決するべく、ああでもない、こうでもない、とAIの活用法を考えていく。

開発側から見るか、社会への影響を考える側かで、視点が変わる。

「なんか、こわいよね」と「めっちゃ、楽しみ」で人の気持ちは揺れる。その時、結論を「いい」「わるい」に単純化してしまうと、議論は平行線になっていく。こんな利点があるけれど、こんな問題点がある。現実を受け止めて、ていねいに話し合っていく必要がある。

わたしは、「社会に、こんな問題が起こりそう」を、想像しがちなので、娘が「こんなことも、できる」の話をしてきてくれるのは、ありがたい。

お年よりの生活を豊かにしてくれる、かわいいロボットが、できあがりますように。

2023年3月22日

物理ですか、、、Physics?

先週末は、娘のジュニアドクターの閉校式だった。

送迎後、わたしは大学構内をぶらぶら歩いていて、掲示板に公開講座のチラシを見かけた。去年、この講座を受けたのが、娘が大学なるものに足を踏み入れた最初だった。

あの時、なぜ大学へ連れて行こうと思ったかと言えば、「勉強しなさい」と言いたくなかったからだ。

その一方で、学ぶことは世界を広げてくれると思うので、自分から選んでくれるといいな、と思っていた。下心はあるが、強制はしたくない。好きな相手に、うまいこと告らせたい、みたいな感じであろうか。

薬草の公開講座では、親子二人で講義を聞き、薬草園を見学した。芥子の実に傷をつけて、アヘンの原料も見せてもらった。キャンパスの雰囲気にすっかりいい気分になった娘は、「また、来たい!」と言った。「ここへ戻って来たいなら、基礎的な勉強を、身につけておく必要があるんだよ」と言うと、「うん!ガンバル!」と答えた。作戦は、大成功に終わった。

その後、県内の小・中学生全員にジュニアドクターの案内が配られた。希望した小学生が大学に通えるなんて、素晴らしい制度だ。思えば、大学は研究をする機関だから、研究をしたい人が、いつでも、行けばいいのだ。そのことを知るだけでも、小学生が大学に遊びに行く価値があると思う。

半年ほどの受講期間を終え、物理の先生から、次年度マスターコースの研究テーマも提示された。 

物理って、あの物理?

わたしは、高校の時の壊滅的な自分の物理のテストのことを思い出した。1時間、なにも書くことがなくヒマですらあったテストは、あれっきり。人生最悪だった。そんなの小学生が取り組むなんて、大丈夫?わたしも、サポートする自信が全くない。

とりあえず、科学館の売店で物理の本を買ってみた。読んでみると、、、ん、おもしろい?物理は、世の中のすべてを、数字を使って説明してくれるものだった。

本をざっと読んで、わたしは物理の楽しさを知らないまま、生きてきたのかもしれないと思った。高校生で出会った教科としての難解さに、苦手意識を持ち、その後の人生を、物理と無縁で進んできてしまった。小学生ぐらいで、世界の不思議を説明するものとして物理と出会った方が、よいのかもしれない。

 

2022年10月25日

自由に育つイモ Organic Sweetpotato kids

 

ラジオで、「コスパ」「タイパ」の話をしていた。すべてに、費用対効果、時間対効果を求めがちな時代なのだと言う。

子どもの活動で、結果を求められるな、と感じることがある。文化芸術に親しむことや、さまざまな年代の善意に触れて育つことの価値はプライスレスだと思うが、なにせ子どもが育ってからわかる「よかったね」だ。結果も多岐にわたるし、確実性もない。多忙な生活に追われた子育て世代に、あえてそれに時間やお金を費やすことのメリットを伝えるのは、難しい。

先日、有機農業の田んぼの稲刈りを見せてもらった。下草が生えてるけど、ちゃんと米は実っていた。有機農法は、同時にいろいろ試していくので、合鴨がよかったのか、品種がよかったのか、よく、わからない。これはよさそうねーという事を重ねていって、実りを得る。

大学でもらったサツマイモの栽培比較データでは、化成肥料の量を半分にしたら、芋が激減するというのをグラムで計って、データにしていた。これは、わかりやすい。

大学のサツマイモ的わかりやすさ。これをする→かしこくなる。

昨日、うちもサツマイモを掘ったけれど、なんでこれぐらいの大きさになったのかは、複数の要因がからみあってて、よく、わからない。結局、来年も、今年や去年のあれこれを考えながら、やっていくんだと思う。うちの畑には、なにがなんでも、イモをこれぐらいとらないと生活が成り立たない、までの切迫感がないから、のんびり「自由に育つイモ」を見守れるのかもしれない。

自由に育つイモであれ。

と、子に言ってやれたらな、と思う。